十八史略・巻六北宋:仁宗(5)

劉太后

十八史略・原文

劉太后、以上爲己子、而上母李氏、默默處先朝嬪御中、未甞自異。人亦畏后不敢言。疾革。乃進位宸妃而薨。宰相呂夷𥳑奏太后、宜備禮以葬。曰、他日、莫道夷𥳑不曾說來。宸妃卒、踰一年太后崩。稱制十一年。上始親政。

十八史略・書き下し

劉太后、上を以て己が子と為し、し而上の母李氏、黙黙として先朝の嬪御中に処り、未だ嘗て自ら異らず。人亦た后を畏れて敢えては言わ不。

疾い革る。乃ち位を宸妃に進め而薨ず。宰相呂夷簡太后に奏すらく、宜く礼を備えて以て葬らんと。曰く、他日、夷簡曽て説き来たら不と道う莫れと。

宸妃卒して、一年を踰えて太后崩ず。みことのりを称うること十一年たり。上始めて政を親しくす。

十八史略・現代語訳

劉太后は仁宗を我が子としたが、生母の李氏は、静かに亡き真宗の妻たちの中で過ごし、他と違う目立つようなことはしなかった。人々も劉太后を恐れて、皇帝の生母として自己主張するようにと、わざわざ言うようなことがなかった。

李氏の病気が重くなった。そこで位を宸妃に進めた後、世を去った(1032)。宰相の呂夷簡が、仁宗を摂政していた劉太后に奏上した。”生母としての礼遇を備えて葬るのがいいでしょう”と。さらにつけ加えた。”後日、夷簡めが一度も礼遇せよとは言わなかった、と仰せにならぬように”と。

宸妃が世を去って、一年を過ぎて劉太后も世を去った(1033)。仁宗を摂政した期間は十一年だった。これにより、仁宗は初めて自分で政治を執った。

十八史略・訳注

劉太后:=章献明粛皇后。868-1033。真宗皇帝の二人目の皇后。李氏の生んだ仁宗を、真宗の同意のもとに奪って我が子とした。
北宋章獻明肅劉皇后

李氏:=章懿皇后。987-1032。劉太后が崩じると、仁宗ははじめて李宸妃が実母であったことを知り、深く哀悼した。李宸妃は皇太后として追尊され、荘懿と諡された。慶暦4年(1044年)11月、夫の諡を重ねて「章懿」と改諡された。

不敢言:「あえては言わず」と読み、積極的には言わなかった、の意。「敢不言」(あえて言わず)と違い、問い詰められたら言ったかも知れない、という語気。

呂夷簡:979-1044。北宋初期の政治家。

十八史略・付記

仁宗の生母が李氏であったことは、おそらく仁宗以外には公然の秘密だったのだろう。幼君に義母の摂政という組み合わせは、通例中国史では生母を焚き付ける役人がわらわら出るが、北宋の士大夫は水滸伝に描かれたように、すさまじい収賄者ではあっても、国家そのものを危うくするようなことには手を貸さなかった、ということだろう。

それも五代の地獄や契丹の脅威あってのことで、中国史には面白いほどの規則性がある。
北宋地図

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