十八史略・巻六北宋:仁宗(6)

呂夷簡

十八史略・原文

先是呂夷𥳑・張士遜竝相。夷𥳑罷、李迪相。而士遜爲首相。無所發明而罷。夷𥳑復相。迪罷、王曾復相。而權在夷𥳑。夷𥳑之初罷也、以郭皇后之言。及復入、而后有尚美人爭寵之隙。遂廢郭后、夷𥳑有力焉。臺諫孔道輔・范仲淹爭、不得而出。

十八史略・書き下し

是より先、呂夷簡・張士遜並びて相たり。夷簡罷められ、李迪相たり。し而士遜、首相為り。発明する所無くし而罷めらる。夷簡復た相たり。迪罷められ、王曽復た相たり。し而権は夷簡に在り。

夷簡之初め罷らるる也、郭皇后之言を以う。復た入るに及び、し而后は尚美人と寵を争う之隙有り。遂に郭后廃せらるるは、夷簡力有り焉。台諌の孔道輔・范仲淹争うも、得不し而出づ。

十八史略・現代語訳

仁宗が親政を始めるより前、呂夷簡と張士遜が共に宰相を務めていた。夷簡が罷免され、李迪が宰相になった。それに伴い張士遜が筆頭宰相になった。しかしこれといって良い事を始めないまま、罷免された。呂夷簡がまた宰相になった。李迪が罷免され、王曽がまた宰相になった。しかし実権は呂夷簡にあった。

呂夷簡が初めて罷免されたのは、郭皇后の発言からだった(1033)。再び宰相となった際、郭皇后は尚美人と仁宗の寵愛を争って仲違いしていた。結果として郭皇后が皇后の地位から降ろされたのは、呂夷簡の力があったのである。その時、皇帝の諫め役の孔道輔・范仲淹が廃位を阻止しようと争ったが、かなわずに朝廷から地方へ左遷された。

十八史略・訳注

呂夷𥳑:979-1044。

張士遜:964-1049。

竝相:宋代の首相は通例2~3人が任命された。

李迪:971-1047。

發明:「明をひらく」ことで、何かしら良い事を始めること。

王曾:977-1038。
王曽

郭皇后:=章穆皇后。1012-1035。仁宗の最初の皇后。

郭皇后之言:司馬光の『涑水記聞』に、郭皇后が仁宗に語った言葉として次のように記されている。

或曰、莊獻初崩、上與呂夷簡謀、以夏竦等皆莊獻太后之黨、悉罷之。退告郭后、郭后曰、「夷簡獨不附太后邪。但多機巧、善應變耳。」由是並夷簡罷之。

或いは曰く、荘献初めて崩ずるや、上呂夷簡与謀り、以て夏竦等皆荘献太后之党を、悉く之を罷めんとす。退きて郭后に告ぐるに、郭后曰く、「夷簡独り太后に附か不る邪。但だ機巧多くして、善く変に応ずる耳」と。是に由りて並びに夷簡の之を罷む。

こういう説がある。荘献皇太后が世を去ってすぐに、仁宗は呂夷簡と相談して、夏竦など、自分をだまして荘献皇太后を実母だと思わせていた皇太后派を、すべて罷免しようとした。仁宗が執務室を下がって郭皇后にこの話をすると、皇后は「呂夷簡だけが皇太后派ではなかったのですか? あの男は悪知恵が働き、風向きが変わるとコロコロ態度を変えますよ?」と言った。その結果、呂夷簡も巻き添えを食らってクビになった。(巻五)

尚美人:=尚充儀。?-1050。仁宗の側室。

爭寵之隙:林本によると、”尚氏を打とうとした皇后の手が、誤って帝の頸を打ち、爪痕までつけてしまったので”とある。

臺諫:官名。北宋では君主への諫止を御史台(官吏の監察を任とする)が担っていたので、台諌といったと林本にある。

孔道輔:985-1039。

范仲淹:989-1052。
范仲淹

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