十八史略・巻六北宋:仁宗(8)

李元昊

十八史略・原文

趙元昊據有夏・銀・綏・宥・靈・鹽・會・勝・甘・凉・瓜・沙・肅州之地、居興州、阻賀蘭山爲固、僭號大夏皇帝、入寇。西邊騷然。范雍經畧西夏、聞元昊將攻延州、懼甚、閉門不救。劉平戰、中官黃德和誣奏平降賊。以兵圍其家、議收其族。冨弼言、平自環慶來援、姦臣不救。故敗、罵賊而死。德和誣入冀免。坐腰斬、范雍罷。

十八史略・書き下し

趙元昊、夏・銀・綏・宥・霊・塩・会・勝・甘・涼・瓜・沙・粛州之地に拠りてたもち、興州に居り、賀蘭山にりて固めと為し、なぞらえて大夏皇帝とよばい、入りてあだなせり。西のはて騒然たり。

范雍西夏を経略し、元昊の将に延州を攻めんとするを聞き、懼るること甚だしく、門を閉じて救わ不。劉平戦うも、中官黄徳和いて平賊に降ると奏す。兵を以て其の家を囲み、其の族を収めんとはかる。

富弼言うらく、平環慶自り来たりて援くるも、姦臣救わ不、故に敗れ、賊を罵り而死す。徳和人を誣いて免るるをこいねがうと。坐して腰斬せられ、范雍罷めらる。

十八史略・現代語訳

西夏の李(趙)元昊が、夏・銀・綏・宥・霊・塩・会・勝・甘・涼・瓜・沙・粛州を占拠して興州に住まい、賀蘭山に拠点を構えて要塞化し、勝手に大夏皇帝と名乗り、中国に侵入して略奪暴行を働いたので、西の辺境は騒然となった(1038)。

その時范雍は西夏対策を担当していたが、李元昊が延州を攻めようとしていると聞き、大層怖がって、任地の城門を閉じて救援しなかった。武官の劉平が戦ったが、宦官の黄徳和が偽って、劉平が李元昊に降服したと奏上した。そこで朝廷は兵を遣わして劉平の家を囲み、その一族を捕らえようと発議した。

しかし富弼が反対して言った。「劉平は環慶路から来援して賊と戦ったが、悪党の范雍は助けようともせず、だから破れ、賊を罵って死んだ。徳和は戦地から逃げ出したのに、無実の劉平にぬれぎぬを着せて、自分の責任を免れようとしている。」そこで黄徳和は敗戦に連座して腰斬りの刑に処せられ、范雍はクビになった(1040)。

十八史略・訳注

趙元昊:=李元昊。1003-1048。西夏の初代皇以帝。

賀蘭山:寧夏回族自治区にある山。
北宋地図

范雍:981-1046。

劉平:北宋の軍人。

中官:宦官。

富弼:1004-1083。
富弼

環慶:北宋の西北方面にあった行政単位。

十八史略・付記

wikiのみで原書に当たっていないが、李元昊が皇帝を名乗ったのは1038年のことで、この時范雍は陝西転運使として環慶路にいたと見られる。

ただし1026から1033まで諫議大夫を務め、1038年には左遷されて陝州(現河南省三門峡市)の知事だったから、史料の言う所が合わない。しかも翌1039年には資政殿学士・吏部侍郎・振武軍節度使となって、却って出世している。事実関係がよく分からない話である。

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