十八史略・巻六北宋:仁宗(10)

富弼

十八史略・原文

契丹乘朝廷有西夏之撓、遣泛使求石晉所割、周丗宗所取關南地。知制誥冨弼接伴。時夷𥳑任事、人莫敢抗。弼數侵之。夷𥳑欲因事罪弼、以弼報使。弼至、往返論難、力拒其割地。使還、再遣。而國書故爲異同。夷𥳑欲以陷弼。弼疑而啓觀。乃復囘奏、面責夷𥳑、易書而往、增歲賂銀絹各十萬、定和議而還。

十八史略・書き下し

契丹朝廷に西夏之みだれ有るに乗じて、ハン使を遣わして石晋の割く所、周世宗の取る所の関南の地を求む。知制誥富弼接伴す。

時に夷簡事をかかえ、人敢えては抗う莫し。弼数ば之を侵す。夷簡事に因りて弼を罪せんと欲し、弼を以て報いの使いたらしむ。

弼至り、往返くりかえし論じなじり、力めて其の地を割くを拒む。使いして還れば、再た遣わさる。し而国書ことさらに異同につくる。夷簡以て弼を陥れんを欲す。

弼疑い而啓きて観る。乃ち復た回りて奏し、むかいて夷簡を責め、書を易え而往き、歳のまいない銀絹各の十万を増し、和議を定め而還る。

十八史略・現代語訳

契丹は宋の朝廷が、西夏との紛争を抱えているのに乗じて、海を越えて使いを遣わし、かつて後晋が契丹に割譲した土地で、うち後周の世宗が取り返した瓦橋関以南の土地を要求した(1041)。詔勅起草役の富弼が、その使者との交渉に当たった。

当時、宰相の呂夷簡は権限を抱え込んだので、人々はわざわざ逆らうようなことをしなかった。ところが富弼は、なんども呂夷簡の権限に手を出した。呂夷簡は機会を捉えて富弼を罪に落とそうと計り、富弼を契丹への回答使に任じた。

富弼は契丹に着くと、繰り返し契丹の間違いを論じ立て、努力して土地の割譲を拒んだ。使いの役目を終えて帰ると、また契丹に派遣された。しかも国書はわざと間違いに書かれていた。呂夷簡はその結果により、富弼を陥れようとしたのである。

しかし富弼は国書に疑いを抱き、開いて見た。すぐさま宋に帰って事の次第を奏上し、面と向かって呂夷簡を責め、国書を書き換えて契丹に赴き、年ごとに契丹に与える講和料を、銀・絹それぞれ十万増加で手を打ち、和議を定めて戻った(1042)。

十八史略・訳注

泛使:泛(音ハン。林本にフンとあるのは誤り)は”うかべる”。海路を通って来る他国の使い。

石晋:石敬瑭が建国した五代の一国、後晋を指す。建国の際に契丹の兵を借り、いわゆる燕雲十六州を割譲した。

周世宗:後周の第二代皇帝。名君とされる。
後周世宗

関南地:”瓦橋関以南の土地”と林本にある。瓦橋は『大漢和辞典』に、関の名。河北省雄県の南の易水のほとり”とある。

知制誥:唐・宋代の官名。詔勅の草案を作る職。

富弼:1004-1083。
富弼

呂夷𥳑:979-1044。

任事:任は妊娠の妊と同系のことばで、”かかえこむ”事。権限を抱え込む。

賂:まいない。一般的には賄賂だが、特別な便宜をはかってもらうために、人に金品をおくることで、ここでは不可侵を守らせるための我慢料。

銀絹各十萬:1004年に真宗が契丹と結んだ澶淵の盟では、毎年絹20万疋・銀10万両を贈ることになっていたが、それぞれに10万を足して毎年絹30万疋・銀20万両となった。

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