十八史略・巻六北宋:仁宗(20)

仁宗崩御

十八史略・原文

策制科人、得蘇軾・蘇轍。

曾公亮平章亊。

上在位四十二年。改元者九。天聖・明道、則埀簾之政也。景祐以來、政由己出。寶元・康定閒、西鄙多事。慶曆更化、君子滿朝。至皇祐・至和・嘉祐、天下承平無亊。恭儉之德、愛人恤物之心、自卽位至升遐、終始如一日。遺制下、雖深山窮谷莫不奔走、悲號而不能止。壽五十四。皇子立。是爲英宗皇帝。

十八史略・書き下し

制科の人にふみして、蘇軾・蘇轍を得たり。曽公亮平章事たり。

上位に在ること四十二年。改元九。天聖・明道は、則ち簾を垂る之政也。景祐以来、政己由り出づ。宝元・康定間、西の鄙事多し。慶暦更めえ、君子朝に満つ。皇祐・至和・嘉祐に至りて、天下平を承けて事無かりき。

うやつみ之徳、人を愛し物をあわれむ之心、即位自り升遐に至るまで、終始して一日の如し。遺制下るや、深山窮谷と雖も奔走せ不るは莫く、悲しみ号ばわり而止む能わ不。

寿五十四。皇子立つ。是れを英宗皇帝と為す。

十八史略・現代語訳

制科出身者の人に辞令を与えて、蘇軾・蘇轍が朝廷の人材となった。曽公亮が平章事(宰相)になった(1061)。

仁宗は在位四十二年。改元した数は九。天聖・明道期は、つまり母后による摂政時代だった。景祐期以来、親政を始めた。宝元・康定期の間は、西の辺境で対外紛争が多かった。慶暦期に政事を刷新し、優れた人材が朝廷に集まった。皇祐・至和・嘉祐期になると、天下太平で内乱・戦乱が無かった。

人にへり下り、慎ましくする人格力、人を愛しものを憐れむ心は、即位からみまかるまで変わること無く、まるで一日の出来事のようだった。遺言が伝わると、どんな山奥や谷底の集落でも、人々が役所に駆けつけてお悔やみを言わない地域は無く、悲しんで泣き叫ぶのを止めることが出来なかった。

享年五十四。皇子が即位した。これが英宗皇帝である(1063)。

十八史略・訳注

制科:科挙(高級官僚登用試験)の一種で、通常の科挙が三段階を経るのに対し、皇帝親裁の一度の試験で合否を決める。

策制科人:林本は策を「策問」=時事の問題に対する論文と解し、”帝自ら受験生を試験して”と訳している。この方がよいかも知れない。

蘇軾:1037-1101。
蘇軾

蘇轍:1039-1112
蘇轍

曾公亮:999-1078。
曽公亮

平章事:=同中書門下平章事。宋代の宰相。複数名が任じられた。

天聖:1023年 – 1032年
明道:1032年 – 1033年
景祐:1034年 – 1038年
宝元:1038年 – 1040年
康定:1040年 – 1041年
慶暦:1041年 – 1048年
皇祐:1049年 – 1054年
至和:1054年 – 1056年
嘉祐:1056年 – 1063年

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