十八史略・巻六北宋:英宗(2)

濮議

十八史略・原文

琦一日出空頭敕。脩已僉、趙槪未僉。脩曰、第書之、韓公必有說。琦坐政事堂、召内侍任守忠、立庭下曰、汝罪當死。責蘄州安置。蓋交鬭兩宮之人也。 

議崇奉濮王典禮。執政欲稱皇考。又以太后詔、令上稱親。司馬光・范鎭・呂誨・范純仁・呂大防・呂公著、交論以爲不可。鎭罷翰林、誨・純仁・大防觧言職、公著罷侍講。議竟不决。 

契丹改號大遼。 

上崩。在位四年。改元者一、曰治平。年三十八。皇太子立。是爲神宗皇帝。

十八史略・書き下し

琦一日空頭の勅を出す。修已にしるし、趙概未だ僉さず。修曰く、ただ之にしるせ、韓公必ず説有らんと。琦政事堂に坐り、内侍任守忠を召して、庭下に立たしめて曰く、汝の罪死に当ると。責めて州安置とす。蓋し両宮にこもごも闘う之人也。

ボク王を崇奉する典礼をはかる。執政皇考と称せんと欲す。又た太后の詔を以て、上をて親と称せしむ。司馬光・范鎮・呂カイ・范純仁・呂大防・呂公著、交も論じて以て可なら不と為す。鎮翰林を罷められ、誨・純仁・大防言職を解かれ、公著侍講を罷めらる。議ついに決まら不。

契丹号を大遼と改む。

上崩ず。在位四年。改元者一、曰治平。年三十八。皇太子立つ。是れを神宗皇帝と為す。

十八史略・現代語訳

宰相の韓琦が、ある日人名を空欄にした勅書を出した。欧陽修はすぐに副署したが、趙概は署名をためらっていた。欧陽修が言った。「何も考えずにお書きなさい。韓琦どのにはお考えがあるようです。」韓琦は執務室に座ったまま、宦官の任守忠を呼び出して、庭に立たせたまま申し渡した。「その方の罪は死罪に当たる。」判決を下して蘄州への流罪とした(1064)。おそらく、英宗と太后の間で争いを煽っていた人物だろう。

英宗の実父である、亡きボク王の祭祀の格式について議論が起こった(1065)。執政の韓琦らは、濮王の称号を皇考(皇帝の父)にしようとした。また太后の詔によって、英宗に濮王を親と呼ばせることにした。しかし、司馬光・范鎮・呂誨・范純仁・呂大防・呂公著らが、それぞれに論じて賛成できないと言った。その結果、范鎮はカン林学士(皇帝の顧問官)をクビになり、呂誨・范純仁・呂大防は言職(政務議官)を解かれ、呂公著は侍講(皇帝の家庭教師)をクビになった。議論はとうとう結論が出なかった。

契丹が、国号を大遼と改めた(1066)。

英宗が世を去った。在位は四年だった。改元は一度のみ、治平と言った。享年三十八。皇太子が帝位に即いた。これを神宗皇帝と呼ぶ(1067)。

十八史略・訳注

韓琦:1008-1075。
韓琦

欧陽脩:1007-1072。
欧陽脩

趙概:?-1083。

僉:”みな”だが、「僉押」で”連名で花押する”の意があり、サインすること。

任守忠:990-1068。

蘄州:現湖北省の長江以北、蘄春県より東の地域。
華南地図

安置:宋代、官吏に対する処罰の一種。大臣の位をさげたり、遠い地方の役人にしたりする。

議崇奉濮王典禮:いわゆる「濮議」として知られる。

司馬光:1019-1086。
司馬光

范鎭:1007?-1089?
范鎮

呂誨:1014-1071。

范純仁:1027-1101。

呂大防:1027-1097。

呂公著:1018-1089。

翰林:国立学士院であり、詔勅を起草する官庁でもある翰林院所属の学士。中国の学士は現在の博士に相当する。

言職:言論で仕える官職で、諌官(皇帝の諌め役)に限らないが、呂誨は侍御史として、呂大防は監察御史裏行(見習い)として、それそれ諌官を務めているから、林本も諌官と解している。ただしその職務は、政務議官であるには違いない。

侍講:翰林院に所属し、皇帝に書籍の講義を行う役職。

治平:1064-1067。

十八史略・付記

おくり名(諡号)とは、死後に勝手に付けられる呼び名であり、皇帝だろうと自分の諡号は自由に出来なかった。英宗とは”はなぶさのみかど”を意味し、花のようにパッと咲いてパッと散った、と言う意味が込められている。気の毒に、と臣下に悼まれたのだと思われる。

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