十八史略・巻六北宋:神宗(1)

神宗即位

十八史略・原文

神宗皇帝名頊。母曰宣仁聖烈皇后高氏。曹太后之甥也。幼與英宗同、鞠后所。後爲英宗配生頊。自潁王爲太子、尋卽位。 

自有濮議以來、言者攻歐陽脩不已、遂罷。韓琦亦罷。 

王安石爲翰林學士入對、首爲擇術爲言、言必稱堯舜。

十八史略・書き下し

神宗皇帝名はギョク。母は宣仁聖烈皇后高氏と曰う。曹太后之甥也。幼くして英宗与同じく、后の所にやしなわる。後に英宗の配と為り頊を生む。潁王自り太子と為り、尋いで位に即く。

濮議有る自り以来、言う者欧陽修を攻めて已ま不、遂に罷めらる。韓琦亦た罷めらる。

王安石翰林学士と為りて入りて対い、はじめに術を択ぶを言と為すと為し、言わば必ず尭舜をとなう。

十八史略・現代語訳

神宗皇帝の名はギョクである。母は宣仁聖烈皇后高氏と言う。高氏は曹太后の姉の娘で、幼い頃から英宗と共に、曹太后の所で育てられた。後に英宗の妃となり、頊を生んだ。頊は潁王だったが太子になり、次いで皇帝の位に即いた(1067)。

英宗の父親である濮王をどう待遇するかの議論が始まって以来、議論する者は濮王を皇帝と呼ばせない欧陽修を攻めて止めなかったので、欧陽修はとうとう副宰相(参知政事)をクビになった。韓琦もまた、宰相(平章事)をクビになった(1071)。

王安石が、国立学士院兼・詔勅起草官庁である翰林院の学士となり(1071)、朝廷に入って神宗と差し向かい、始めに政事の術を良く選ぶことを進言しますと言い、それからは助言するごとに、必ず尭舜といった古代の聖王を引き合いに出した。

十八史略・訳注

神宗皇帝:1048-1085。
宋神宗

宣仁聖烈皇后高氏:=宣仁皇后。英宗の皇后。
宣仁皇后

曹太后:=慈聖光献曹太后。1016-1079。仁宗の二人目の皇后。
曹皇后

甥:姉妹の子。

欧陽脩:1007-1072。
欧陽脩

韓琦:1008-1075。
韓琦

王安石:1021-1086。
王安石

翰林:国立学士院であり、詔勅を起草する官庁でもある翰林院所属の学士。中国の学士は現在の博士に相当する。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)