十八史略・巻六北宋:神宗(3)

王安石新法を始める

十八史略・原文

安石建議、創制置三司條例司、議行新法。言周置泉府之官、變通天下之戝。後丗惟桑弘羊・劉晏、粗合此意。今當修泉府之法、以收利權。安石多與呂惠卿謀。人號安石爲孔子、惠卿爲顏子。先是治平中、邵雍與客散步天津橋上、聞杜鵑聲、愀然不樂。客問其故。雍曰、洛陽舊無杜鵑。今始至。天下將治、地氣自北而南。將亂、自南而北。今南方地氣至矣。禽鳥飛類、得氣之先者也。不二年、上用南士作相、夛引南人、專務更變、天下自此夛亊矣。至是雍言果驗云。

十八史略・書き下し

安石建議して、制置三司条例司を創り、新法を行うをはかる。言く、周は泉府之官を置き、天下之財を変通せしむ。後世惟だ桑弘羊・劉晏、ぼ此の意に合う。今当に泉府之法を修め、以て利権を収むべしと。

安石多く呂恵卿与謀る。人安石をびて孔子と為し、恵卿を顔子と為す。

是より先治平中、ショウ雍客与天津橋上を散歩し、杜ケンの声を聞き、ショウ然として楽しま不。客其の故を問う。雍曰く、洛陽と杜鵑無し。今始めて至る。天下将に治まらんか、地気北自りし而南す。将に乱れんか、南自りし而北す。今南方の地気至る矣。禽鳥飛類、気之先を得る者也。二年なら不して、上南士を用いて相とし、多く南人を引き、専ら更変に務め、天下此自り事多からん矣と。

是に至りて雍の言果たして験ありと云う。

十八史略・現代語訳

王安石は皇帝に進言して、制置三司条例司を設置し、新法を行うための諮問を行わせた(1068)。安石は言った。「周は泉府の官庁を設置し、天下の財貨を時宜に従って売買した。後世では、桑弘羊と劉晏だけが、この役割をおおむね理解して実行した。今ここで泉府の法に見習って、経済的な利権を政府に回収させるべきである。」

王安石は、ほとんどの相談を呂恵卿を相手に行った。人は安石を孔子になぞらえ、恵卿を顔回になぞらえた。

これより以前の治平年間中(1064-1067)、洛陽に住まうショウヨウが客と天津橋の上を散歩し、ホトトギスの声を聞き、悲しげな顔をしてしょぼくれた。客がその理由を問うた。邵雍は言った。「洛陽にはもともと、ホトトギスはいなかった。今初めて現れた。もし天下が治まる兆しなら、大地の精気は北から南へと動く。もし乱れる兆しなら、南から北へと動く。どうやら今、南方の気がやって来たようだ。鳥など空を飛ぶものは、精気を真っ先に感じるものだから。今から二年とたたずして、陛下は南方の人材を召して宰相にし、それをきっかけにどんどん南方人が朝廷にはびこって、ひたすら政治をいじくり回すだろう。そのせいで、天下にはそれ以降、面倒ごとが多発するだろう。」

王安石が新法を始めたことで、邵雍の予言は当たったと言われた。

十八史略・訳注

王安石:1021-1086。
王安石

制置三司條例司:経済閣僚諮問会議。財政を担当する、戸部(人口統計省)・度支タクシ部(財務省)・塩鉄部(経済流通省)の長官に、さらに経済財政を審議させる官庁。主に王安石が提唱した新法を審議させるために設置された。

泉府之官:「周礼」記載の官名。物価の調節をつかさどった。

變通:物事に応じて変化しよく通じる。事を臨機応変に処すること。

桑弘羊:BC152-80。前漢の経済官僚。
桑弘羊

劉晏:716-780。唐の財務官僚。

呂惠卿:1032-1111。

邵雍:1012-1077。
邵雍

天津橋:洛陽にかかった橋の名。

杜鵑:音ト・ケン。ほととぎすの別名。蜀王の杜宇が位をゆずった後にほととぎすに化したといわれることから。「時鳥」「子規」「不如帰」とも。

愀然:顔をしかめるさま。心配そうなさま。表情をひきしめるさま。

十八史略・付記

「地氣自北而南」について、林本にこう言う。「陰陽の理に従えば、北は陰で臣の位、南は陽で君の位。地気が北より南すとは、臣が君に朝するもので、天下の治まることを意味し、南より北すとは、君が臣に従うことで、天下の乱れることを意味する。」

しかし「天子南面」と論語の昔から言い、北こそ君の位と言いたくなる。それより「中声を奏でるは、中節を為るなり。南於流れ入りて、北於帰ら不。南者生育之さと、北者殺伐之域なり」(『説苑』脩文)というような、古くからの常識に由った発言ではないだろうか。

要するに中国も北半球だから、南は温かいが北は寒い。おまけに蛮族まで住んでいる。邵雍は程兄弟と並ぶ儒者だそうで、宋の儒学は陰陽の理を妙に取り入れすぎて黒魔術化したから、邵雍の心象風景としては、林本の言う通りなのかもしれないが、ついつい半畳を入れたくなる。

北 解字字形28は北の字である。AとBとが、背中合わせに立った姿を示す会意文字である。たがいに逆の方向にそむいているから、背反の背(そむく)というコトバを派生する。逃げる時には、まさか顔を向けて後ずさりするわけにもいくまい。ふつうは背を向けて逃げるものだ。そこでまた敗北の北(背を向ける)となる。また寒くなると南の縁がわで日光を浴びて、キタには背を向ける。したがって北にはキタという意味を派生する。南北の北(キタ)とは、「背を向ける方角」ということである。

<荘子>の中に「死人の説教」という話が見える。荒野で野宿した荘子の夢に骸骨が現れてくる。荘子「おぬしは悪事でも働いて死んだのかね。」骸骨「なにをバカな。俗人にはわしらの楽しみはわかるまいテ。」荘子「ホウ? 死人の楽しみとはネ。」骸骨「死んだがさいご、長者も乞食もない。ノンキなものじゃ。する王様の楽しみとても、わしらの自由には及ぶまい。」――さて王者は南面し、天子の玉座は南を向く。人間は一般に南を向きたがり、北には背を向けるということを、この事実が代弁している。君主が南を向くから、臣下はやむなく北面せざるをえない。そこで日本の平安朝でも、宮中護衛の武士は「北面の武士」と呼ばれた。べつに好んで北面したわけではない。やむをえずいやなキタ側を向いて奉仕したに過ぎない。

北なお北(ホク)と背(ハイ)とでは、ずいぶん発音が違うと思われる方々もあろうが、上古にも後世にも北はpəkと発音した。背は上古ならpəg、中古(隋や唐の時代、つまり七~一〇世紀)にはpəiとなる。そこで日本の漢字音では、北をホク、背をハイと訳したわけだ。上古では北と背とは、ほとんど同じ語形であった。(藤堂明保『漢文入門』)

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