十八史略・巻六北宋:神宗(7)

司馬光、官界を泳ぎ渡る

十八史略・原文

司馬光先自學士除樞副、力辭不拜。數言新法之害。上喩安石曰、聞三不足之說否。曰、不聞。上曰、外人云、朝廷以爲天變不足畏、人言不足恤、祖宗法不足守。昨、學士院進館職策問、專指此三事。策問光所爲也。光屢請外、得永興、移許州。上言、臣之不才、最出羣臣之下。先見不如呂誨。公道不如范純仁・程顥。敢言不如蘇軾・孔文仲。勇决不如范鎭。屢請判西京留司御史臺。至是得請。後四任、提擧嵩山崇福宮。

十八史略・書き下し

司馬光先に学士自り枢副に除せらるも、力めていなびてけ不。数ば新法之害を言う。

上安石に喩して曰く、三不足之説を聞かやと。曰く、聞か不と。上曰く、外人云く、朝廷以て天変は畏るるに足ら不、人言はあわれむに足ら不、祖宗の法は守るに足ら不と為すと。きのう、学士院館職の策問を進めて、専ら此の三事を指せりと。策問光の為る所也。光屢ば外を請い、永興を得、許州に移る。上せて言く、臣之不才、最も群臣之下に出づ。先見は呂誨に如か不。公道は范純仁・程顥に如か不。敢言は蘇軾・孔文仲に如か不。勇決は范鎮に如か不と。

屢ば判西京留司御史台を請う。是に至りて請うを得。後四たび任ぜられ、提挙嵩山崇福宮たり。

十八史略・現代語訳

これより前、司馬光は翰林学士(エリートコースの記録官)から抜擢されて枢密副使(大本営事務次官)に任じられたが、強く辞退して拝命しなかった(1070)。その上、しばしば新法の弊害を訴えた。

神宗が王安石に諭した。「三つの足りず、という話を聞いたことがあるか。」
安石「ございません。」
神宗「官僚らが言っているそうだ。今の朝廷は、天は畏れるに足りず、人の意見は気に掛けてやるに足りず、開祖の法は守るに足りずの鼻息だ、と。昨日、翰林学士院が記録官に書かせた時事論文を提出してきた。そこで論じられているのが、つまりこの問題だ。」

この論文は、司馬光が書いたものだった。司馬光は地方官に転勤したいと何度も願い出て、陝西の永興軍節度使に職を得た(1070)。その後許州(河南省)の知事を命じられたが、その際上申書を書いて述べた。「私は頭が悪く、朝臣の最下等であります。先見の明は呂カイに及ばず、公正無私は范純仁・程コウに及ばず、直言は蘇軾・孔文仲に及ばず、決断力は范鎮に及びません。(ですからどうか、他の者にお命じ下さいますよう。)」

その代わり、何度も西京留司御史台(洛陽所在の監察官庁)の判官(監察官)にして頂きたいと願った。そしてこの時(1071)になって願いが叶い、転勤した後、一期三年を四度、提挙嵩山崇福宮(洛陽近郊の名山・嵩山を祭る道教寺院の監督官)として勤めた。

十八史略・訳注

司馬光:1019-1086。
司馬光

學士:=翰林学士。科挙(高級官僚採用試験)の優等合格者が採用される。司馬光は状元(主席合格者)ではなかったが、優等で合格したと思われる。

樞副:枢密院(大本営)の事務次官。

王安石:1021-1086。
王安石

學士院:=翰林学士院。

館職:史館・昭文館・集賢館を三館と言い、その職員。

永興:陝西省西安付近に駐屯した永興軍節度使。

許州:現河南省許昌市一帯。

呂誨:1014-1071。

范純仁:1027-1101。

程顥:音テイ・コウ。=程明道。程伊川の兄。1032-1085。

蘇軾:1037-1101。
蘇軾

孔文仲:1038-1088。

范鎭:1007?-1089?
范鎮

判西京留司御史臺:西京(=洛陽)に置かれた監察機関の官職。以下詞网より引用。

官名。北宋真宗天禧四年(1020)置、以三品以上官充任。三品以下官领其事、则称管勾或权判。

提擧嵩山崇福宮:崇福宮は、洛陽近郊の名山、嵩山を祭る道教の寺院。提挙はその監督官。

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