十八史略・巻六北宋:神宗(8)

河の戦役

十八史略・原文

歐陽脩先知靑州。以擅止給散靑苗錢、徒知蔡州。至是乞致仕。 

冨弼先知亳州。坐格靑苗法、徒知汝州。 

中丞楊繪・裏行劉摯、以議新法罷。 

罷差役行募役法。 

立大學三舍法。 

行市易法。 

行保馬法。 

頒方田均稅法。 

置熈河路、以王韶爲經略安撫等使。先是韶上平戎策。謂欲平西夏、當復河湟。今古渭之西、熈・河・蘭・鄯、皆漢隴西郡。吐蕃唃廝啰一族國其閒。宜倂有之以絕夏人右臂。安石以爲奇謀、始開熈河之役。韶克河・洮・岷・疊・宕等州、又據靑唐咽喉之地。邊堠益斥。役兵之死亡甚多。

十八史略・書き下し

欧陽修先に青州をおさむ。ほしいままに青苗銭を給え散らすを止むを以て、うつされて蔡州を知む。是に至りて致仕を乞う。

富弼先にハク州を知む。青苗法をとどむるに坐して、徒されて汝州を知む。

中丞楊絵・裏行劉摯、新法をそしるを以て罷めらる。

差役を罷め募役法を行う。

大学三舎法を立つ。

市易法をう。

保馬法を行う。

方田均税法を頒つ。

煕河路を置き、王韶を以て経略安撫等使と為す。是より先韶戎を平ぐるの策を上す。

謂く西夏を平げんと欲さば、当に河湟を復すべし。今、古の渭之西、煕・河・蘭・鄯、皆な漢の隴西郡なり。吐蕃の唃厮啰カクシラの一族其の間に国なせり。宜く之を併せ有ち、以て夏人右臂を絶たんと。

安石以て奇謀と為し、始めて煕河之役を開く。韶河・洮・岷・畳・宕等州に克ち、又た青唐咽喉之地に拠る。辺堠益すひらく。役兵之死亡甚だ多し。

十八史略・現代語訳

これより前、欧陽修は青州(山東省)の知事だったが、青苗銭(公的貸付金)の給付を勝手に止めたかどで、異動させられて蔡州(河南省)の知事になった(1070)。しかし辞令を受けて、引退を願い出た(1071)。

富弼もこれより前、ハク州(安徽省)の知事だったが、勝手に青苗法の実施を行わなかったかどで、異動させられて汝州(河南省)の知事となった(1071)。

中丞(監察次官)の楊絵と裏行(監察見習い)の劉が、新法を批判したかどでクビになった(1071)。

それまでの差役(裕福な民に課していた労役。重すぎて破産者が出た)を廃止し、募役法(労役の代わりに免役銭を徴収し、その金で暇な者を雇って働かせる制度)を実施した(1070)。

大学三舎法(国立大学の学生を三等級に分け、上等級の中でも優秀者を、科挙を歴ないで任官させる制度)を施行した(1071)。

市易法(国営倉庫・流通業)を実施した(1072)。

保馬法(軍馬飼育民間委託制度)を実施した(1072)。

方田均税法(検地)を施行した(1072)。

煕河路(現甘粛省臨洮県一帯)を設置し、王韶を経略安撫等使に任じた(1072)。これより前に、王韶は異民族鎮圧策を上申してこう述べた。

「西夏を屈服させるには、黄河と湟水の間を取り戻さねばならない。かつての渭州の西、煕州・河州・蘭州・鄯州は、全てもとは漢の隴西郡だった。今は吐蕃の唃厮啰カクシラの一族が、その一帯に国を作っている。これを併合するのが適切だ。それで西夏の右腕を切り落とすことになる。」

王安石はこの策がいけると思い、煕河戦役を始めた。王韶は河州・トウ州・ミン州・ジョウ州・トウ州などで勝利し、唃廝啰一党がこもる青唐国、つまり西夏にとって喉に当たる地を根拠地とした。これによって宋の一里塚が建つ辺境は広がったが、従軍兵士の戦死が甚だ多かった。

十八史略・訳注

欧陽脩:1007-1072。
欧陽脩

靑州:現在の山東省一帯。

靑苗錢:wikipediaより引用。

青苗法:1069年(熙寧2年)9月に施行。宋代には天災による飢饉に対する備えや貧民救済のために穀物を蓄えておく常平倉・広恵倉というものがあった。しかしこれの運用がまずく、蓄えられている穀物が無駄に腐っていくことも多かったので、これを利用して農民に対する貸付を行った。
毎年、正月と5月に貸付を行い、基本は貨幣(これを青苗銭と呼ぶ)による貸付・穀物による返済であるが、望むものには穀物での貸付・貨幣での返済を認める。利息は3割と民間の高利貸しと大差が無い。
貸付にあたり、10戸が集まって1保を作り、この間で連帯保証を行う。これの実施のために、全国の路(宋の地方における最大行政単位)ごとに提挙常平司を置く。

蔡州:現在の河南省駐馬店市一帯。
華北地図

富弼:1004-1083。
富弼

亳州:音ハク・シュウ。現在の安徽省亳州市一帯。
華南地図

汝州:現在の河南省汝州市一帯。

中丞:監察を任とする御史台の次官。長官の御史大夫が通常空席のため、事実上の長官。

楊繪:1027-1088。

裏行:見習い。

劉摯:1030-1097。

差役:=職役。税の一種である労役の一つ。

募役法:wikipediaより引用。

1070年(熙寧3年)から開封周辺で試験的に運用し、1071年10月から全国的に施行。免役法とも言う。
従来の農民、主に形勢戸たちは政府の様々な雑用(職役)、州郡の倉庫管理・租税運搬・官の送迎などを課せられていたが、この負担は非常に重く、事故で損害があった場合は全てを補償せねばならず、何かと言えば官と胥吏に賄賂を求められる。一応政府からの支給はあったが必要な額はそれをはるかに超えていることが多く、これが元で破産してしまう形勢戸も少なくなかった。これを差役法と言う。
そこで職役を課す代わりにその分を貨幣(これを免役銭と呼ぶ)で収めさせ、それを使って人を雇い、職役を行わせる。また元々職役が免除されていた官戸・寺院・道観(道教の寺院)・坊郭戸(都市住民)・単丁戸(丁(働き手の男性)が一人しかいない戸)・未成丁戸(まだ丁になっていない子供しかいない戸)・女戸(女性しかいない戸)などからも助役銭と称して免役銭の半分を徴収した。

大學三舍法:wikipediaより引用。

1071年(熙寧4年)10月より開始。当時、首都開封には太学と言う科挙合格を目指す学生たちが集まる機関があった。これを下から外舎・内舎・上舎の3段階に分け、それぞれ定数を600・200・100とする。年2回の試験を通過したものが上に登り、上舎での成績優秀者が科挙を通過せずに任官される。後、徽宗期の蔡京により、地方にまで拡張されるが、この時期には単なる人気取り政策に堕していた。

市易法:wikipediaより引用。

1072年(熙寧5年)3月施行。この法には2つの面がある。
一つは均輸法を受け継いだ物価調整の面。当時、朝廷に収められる物品は有力者と結託した商人が勝手な価格をつけることが多かった。それに対して価格の査定を政府が定めた行(ギルド)に登録された商人に任せ、大商人による勝手な価格をつける事を抑制した。
もう一つが青苗法の商人版というべきもの。政府が中小商人や都市住民に対してそれなりの高利で貸し付けた。
市易法を始めた当時は、担当役人の呂嘉問の法律運用に拙速すぎるところがあり世の中に混乱をもたらした。その事が第一次王安石政権崩壊のきっかけとなった(下記参照)。
しかし、法律が軌道に乗ると、資金が下流層にもまわり景気拡大に大きく貢献した。そして神宗親政後半期は莫大な市易銭運用利益を利用して、その他の新法(下級役人・胥吏への給料や共同体再生(保甲法))の費用に充てることができるまでになった。 

保馬法:wikipediaより引用。

1072年(熙寧5年)5月施行。それまで政府の牧場で行ってきた馬の飼育を戸1つに1頭、財力のある戸には2頭ずつ委託する。委託された馬を損なった場合には補償の責任を負うが、その代わり委託されている戸には免税がある。

方田均稅法:wikipediaより引用。

1072年(熙寧5年)3月施行。田地を測量しなおし、税額のごまかしや隠し田を発見するためのものである。いわゆる検地。千歩(15.35m)四方を「方」という1単位にし、それを元に課税する。

熈河路:現在の甘粛省臨洮県一帯。

王韶:1030-1081。
王韶

經略安撫等使:計略は現地での軍事作戦、安撫は住民の保護と人心の掌握。それらを兼ねた事実上の総督。

先是韶上平戎策:林本には、”建昌軍――今の江西省の地――の司理という官にあったが、わざわざ上京して”とある。

西夏:1038-1227。タングート族の国家。
北宋地図

河湟:黄河とその支流である湟水(地図中のHuangshui)の間の地域。
黄河 地図
©Shannon1

古渭:いにしえの渭州。現在の甘粛省隴西県東南一帯。

熈・河・蘭・鄯:熈州河州蘭州鄯州

隴西郡:現在の甘粛省東南部。

吐蕃:チベット。

唃厮啰:音カク・シ・ラ。997-1065。唃厮啰国(=青唐王国。ゾンカ国。1032-1104)の開祖。『宋史』では正字の「唃廝囉」と書いている。

王安石:1021-1086。
王安石

開熈河之役:1073-1074。

洮・岷・疊・宕:洮州岷州疊州宕州

堠:音コウ。一里塚や斥候を意味する。なお分野はまったく違うが、”「土偏に候」をめぐって”という学術論文がある。

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