十八史略・巻六北宋:神宗(9)

寧七年の飢饉

十八史略・原文

中書檢正章惇、察訪湖北。始議經制南北江蠻。辰州南北江、乃古錦州之地、接施黔䍧柯。命章惇措置。惇言招諭梅山蠻徭、令作省戶、皆歡迎。其實殺戮、浮屍蔽江。 

置詩・書・周禮・三經義局。安石提擧。呂惠卿及安石子雱等爲檢討。 

熈寧七年、天久不雨。河東北・陝西流民、皆流入京城。而京城外飢民尤多。監安上門鄭侠、畫爲圖、上書曰、陛下南征北伐、皆以勝捷之勢、作圖來上。無一人以天下憂苦、妻子不相保、遷移困頓、遑遑不給之狀、爲圖而獻者。安上門逐日所見、百不及一、亦可流涕。况千萬里外哉。

十八史略・書き下し

中書検正章トン、湖北を察て訪ぬ。始めて議りて南北江蛮をおさととのえんとす。辰州の南北江は、乃ち古の錦州之地にして、施黔䍧柯とく。章惇に命じて措置せしむ。惇言く、梅山の蛮徭を招き諭して、令して戸を省くを作さしめ、皆な歓び迎うと。其の実殺し戮し、浮かべる屍江を蔽う。

詩・書・周礼三経義局を置く。安石提挙たり。呂恵卿及び安石の子雱等検討為り。

煕寧七年、天久しくふらさ不。河東北・陝西の流民、皆な京城に流れ入る。し而京城外の飢民尤も多し。

安上門を監る鄭侠、画いて図を為り、書を上せて曰く、陛下の南征北伐、皆な勝捷之勢を以て、図を作りて来りて上す。一人も天下の憂い苦しみ、妻子の相い保た不る、遷り移りて困しみたおれ、遑遑としてり不る之状を以て、図を為り而献る者無し。安上門日を逐いて見る所、百にして一に及ば不るも、亦た涕を流す可し。況や千万里の外をと。

十八史略・現代語訳

中書検正の章トンが、湖北を視察した(1072)。朝廷は初めて長江南北の蛮族を統治下に組み入れる議論を始めた。辰州(湖南省)の南北江は、つまり昔の錦州(湖南省)であり、施州(湖北省)・キン州(重慶市)・ヨウ州(貴州省)・州(貴州省)と接していた。朝廷は章惇に命じて編入事業を行わせた。章惇が報告した。「梅山(湖南省)のヤオ族を呼び寄せ言い聞かせて、徴税単位である戸を省いて組織しましたので、みな喜んで従っております。」しかし実は皆殺しにして、長江に浮かんだ死体が川を覆い尽くした。

『詩経』・『書経』・『周礼』の三経の解釈を定める義局を設置した(1073)。王安石がその提挙(監督官)になった。呂恵卿と安石の子のホウらが、検討(審議官)になった。

煕寧七年(1074)、天は長い間雨を降らさなかった。河東北(山西省南部)と陝西の流民は、すべて京城(首都開封)を目指して移動した。しかも城内に入りきらない飢民の方がより多かった。

京城の安上門の監督官だった鄭侠が、その様子を描いて「流民図」を作り、意見書を上申して述べた。「陛下の南征や北伐では、全て華々しい戦勝の模様を題材に、図を作って差し上げています。ですからただの一人も、天下の憂いや苦しみや、民が妻子を養いかねている模様や、流民が移動を余儀なくされる苦しみや行き倒れや、避難民の飢えて明日をも知れぬ心細さを題材にして、図を作って差し上げる者はいません。ですが現場は違います。安上門から毎日見ておりますと、たとえその苦しみの百分の一も分からなくとも、それでも涙を流すに十分です。まして千万里の彼方にさまよう流民については、言うまでもありません。」

十八史略・訳注

中書檢正:京都大學人文科學研究所教授・梅原郁による、熊本崇「中書檢正官―王安石政權のにないてたち―」(東洋史研究第四七卷第一號)の書評より引用。

中書檢正官とは、王安石が宰相となり、皇帝神宗と絶対ともいえる信頼關係を固めた煕寧三年九月(一〇七〇)に設置され、安石が政權を掌握していた熙寧年間約七年の間、新法請政策の先頭にたった人たちが持った職名である。それは擔當領域によって、吏、戸、禮、刑、孔目の五房(部局)に分かれ、それぞれたとえば檢正中書刑房公事などと呼ばれる。定員は各房二名づつ合計十名、それを一人の都檢正官が統轄する。檢正官は直屬の部下は持たず、すべて宰相(中書)王安石の屬官あるいは分身として働く。この論文の副題にも示されているように、王安石政権の實務派グループ、蔭の内閣官房とでもいえ、とくに都檢正は熊本氏の言葉を借りれば與黨の幹事長に比すべき存在であった。

章惇:音ショウ・トン。1035-1105。

湖北:洞庭湖より北の地方。
華南地図

辰州:現在の湖南省懐化市一帯。

錦州:現在の湖南省鳳凰県一帯。

施黔䍧柯:施州(湖北省)・黔州(重慶市)・䍧州(貴州省)・柯州(貴州省)。
蜀雲南地図

梅山:現在の湖南省益陽市安化県。

蛮徭:ヤオ族。

經義局:コトバンクより引用。

経局ともいう。中国、宋代に『詩』『書』『周礼』三経の訓訳書をつくるために設けられた役所。科挙試験のため、経義の統一が必要となり、神宗の煕寧6 (1073) 年3月、王安石を提挙として創設。有名な『三経新義』はここでつくられた。

王安石:1021-1086。
王安石

提擧:監督官。

呂惠卿:1032-1111。

安石子雱:=王雱(オウ・ホウ)。1044-1076。

檢討:官職名の一つ。下は『大漢和辞典』の語釈。
検討

熈寧:真宗の年号の一つ。1068-1077。

河東北:河東路(山西省の長城以南、聞喜県以北の全境、陝西省葭県以北)と河北路(山西省の南半分)。
華北地図

京城外:中国の都市は、原則として城郭都市だから、都市に入りきらない者は当然、城壁外に集まる事になる。
城

安上門:首都開封の城門の一つ。

鄭侠:1041-?。

畫爲圖:「流民図」と呼ばれている。下の図は同じ題で明の周臣によるもの(部分)。
流民図

作圖來上:寡聞の限りでは、宋代の戦勝を描いた絵は現存しないが、後代の清の乾隆帝は、むやみに拡大戦争を起こしてその勝利に酔った。その戦勝を伝える絵を「得勝図」と言う。
『平定準噶爾回部得勝図』「格登山斫営図」
カスティリオーネ『平定準噶爾回部得勝図』「格登山斫営図」via国立故宮博物院(台北)

困頓:「頓」は”ドスンと地に頭を打ち付ける”ことだから、「くるしたおる」と読んだが、”落ち着く場所・宿”の意もあり、「やどに困む」と読んだ方がいいかもしれない。

遑遑:あわただしくて落ち着かないさま。

十八史略・付記

「『詩経』・『書経』・『周礼』の三経の解釈を定める義局を設置した」とあって、「ふ~ん」としか思えないのだが、これはもちろん、王安石による思想統制。第一に、科挙の採点基準を独占することで、およそ文字を読める人々の脳みそを否応なく制御した。

本を読むのは役人になって孫子共に贅沢をしたいからで、好き好んで勉強する人間など、現代も宋代も珍無類に属する。第二に陰惨極まる文化大革命の発端が、戯曲『海瑞罷官』の発表だったように、文芸や古典にかこつけて政敵を批判するのは、中国知識人の常套手段だった。

だからあらかじめ手を打って、古典の解釈を国営化し、物書きどもの口を閉ざしたのである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)