十八史略・巻六北宋:神宗(11)

韓琦、世を去る

十八史略・原文

判相州韓琦薨。琦天資忠厚、能斷大事。治平閒爲首相、政事問集賢、典故問東廳、文學問西廳、大事則自決之矣。出判相州。初言靑苗不便、朝廷不從、卽命散給曰、藩臣之體當如是。在鄉郡八年而終。御製碑曰、兩朝顧命定策元勛之碑。

十八史略・書き下し

判相州の韓琦薨ず。琦天資忠厚、能く大事を断る。治平の間は首相為りて、政事を集賢に問い、典故を東庁に問い、文学を西庁に問い、大事は則ち自から之を決めた

出でて相州の判たり。初めて青苗の便なら不るを言うも、朝廷従わ不るに、即ち命じて散り給えしめて曰く、藩臣之体当に是の如くなるべしと。

郷郡に在ること八年にし而終る。御製碑に曰く、両朝顧命定策元勛之碑と。

十八史略・現代語訳

相州の通判(監察官)だった韓琦が世を去った(1075)。韓琦は生まれつき忠実で情に篤く、しかも大事を決断する力があった。治平年間(1016-1067)は首相だったが、政治は集賢学士の曽公亮と相談し、典礼故実は東庁で執務した参知政事(副宰相)の趙概に問い合わせ、文学は西庁で執務した参知政事の欧陽修に教えを乞うたが、大事についてはまったく自分一人で決断した。

地方官として転出して、故郷相州の通判になった(1067)。官僚達の中では、最も早くから青苗法が現実に合わないことを指摘したが、朝廷が従わないので、直ちに部下に命じて公銭を民に分け与えて言った。「地方を預かる役人たる者、このようでなくてはならない。」

故郷の相州で在任すること八年にして世を去った。神宗は手ずからその顕彰碑の文を記した。「仁宗、英宗二代にわたり、皇帝の遺言を託され、新帝を冊立した元勲の碑。」

十八史略・訳注

判:=通判。監察官。なおこれとは別に、唐・宋には判官が置かれた。

相州:現在の河南省安陽市。
華北地図

韓琦:1008-1075。
韓琦

治平:1016-1067。英宗の年号。

集賢:=集賢殿学士だった曾公亮(999-1078)。
曽公亮

東廳:参知政事を務めた趙概(?-1083)。東西庁は、いずれも参知政事の執務場所であると林本に言う。

西廳:参知政事だった欧陽脩(1007-1072〕。
欧陽脩

靑苗:=青苗法。wikipediaより引用。

1069年(熙寧2年)9月に施行。宋代には天災による飢饉に対する備えや貧民救済のために穀物を蓄えておく常平倉・広恵倉というものがあった。しかしこれの運用がまずく、蓄えられている穀物が無駄に腐っていくことも多かったので、これを利用して農民に対する貸付を行った。
毎年、正月と5月に貸付を行い、基本は貨幣(これを青苗銭と呼ぶ)による貸付・穀物による返済であるが、望むものには穀物での貸付・貨幣での返済を認める。利息は3割と民間の高利貸しと大差が無い。
貸付にあたり、10戸が集まって1保を作り、この間で連帯保証を行う。これの実施のために、全国の路(宋の地方における最大行政単位)ごとに提挙常平司を置く。

鄉郡:韓琦の地元なので、相州を郷里の郡と呼んだ。

兩朝:仁宗と英宗を指す。

顧命:天子が臨終のとき、遺言して死後のことを臣下に命じること。

定策:臣下が天子を位につけること。昔、天子が位につくと、そのことを策(竹の札)に書いて、宗廟にささげたことから。

元勛:=元勲。大きなてがらのあった人。

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