十八史略・巻六北宋:神宗(12)

河東路の一部を割譲

十八史略・原文

命韓縝如河東割地。先是遼使屢至言、河東沿邊增修戌壘、起舖舍、侵入彼國蔚應朔州界。乞行毀撤、別立界至。蓋遼人見朝廷招高麗、建熈河、西山植楡柳、創保甲、築河北城池、創都作院、降弓刀新樣、置界北三十七將、疑有復燕之意、故以爭地界爲名、觀朝廷所以應。安石斷之曰、將欲取之、必姑與之。東西失地七百里。

十八史略・書き下し

シンに命じて河東に如き地を割かしむ。是より先遼使屢ば至りて言く、河東の沿辺戌塁を増し修め、舗舎を起て、彼の国の蔚応朔州界に侵し入る。乞うらくは毀ち撤るを行いて、別に界至を立てんと。

蓋し遼人、朝廷の高麗を招き、煕河を建て、西山は楡柳を植え、保甲を創め、河北は城池を築き、都作院を創り、弓刀の新様なるを降し、界北は三十七将を置くを見て、燕を復さんとする之意有るを疑い、故に地界を争うを以て名と為し、朝廷の以て応ずる所を観るべし。安石之を断じて曰く、将に之を取らんと欲さば、必ず姑く之を与えよと。東西地を失うこと七百里なり。

十八史略・現代語訳

シンに命じて河東路(山西省南部)に行かせ、土地を遼に割譲させた(1075)。以前から遼の使いが何度もやって来て言った。「貴国の河東路の辺境では、要塞を増築し、商店を建て、我が国の蔚・応・朔州の境界に貴国軍が侵入してくる。こちらの希望として、それらの施設を撤去して、新たに国境線を定めたい。」

これは遼人が、宋の朝廷が高麗の使節を招き寄せて国交を維持したり、煕河路(甘粛省)を新設したり、西山に楡や柳を植えて遼軍を防いだり、保甲法(民兵組織)を始めたり、河北に要塞を建てたり、都作院(国営造兵工廠)を新設して弓や刀の新型を支給したり、北の国境沿いに三十七人の将軍を配置したのを見て、燕雲十六州を取り戻そうとしているのだと疑って、境界争いを名目に、宋の朝廷の出方を窺ったのだろう。

王安石が対応を決断して言った。「『老子道徳経』にある通りだ。何かを得たいなら、まず一旦は相手に預けておくことだ、と。」失った土地の東西は七百里だった。

十八史略・訳注

韓縝:音カン・シン。1019-1097。

河東:=河東路(山西省の長城以南、聞喜県以北の全境、陝西省葭県以北)。

:916-1125。契丹人が建てた河北から満州・蒙古を領有する王朝。

蔚應朔:音ウツ・オウ・サク。蔚州(河北省張家口市)・應州(山西省朔州市応県)・朔州(山西省朔州市)。それぞれ遼に属する州名。
華北地図

高麗:918-1392。朝鮮半島の統一王朝。
北宋地図

熈河:=熈河路。現在の甘粛省臨洮県一帯。

西山:余りに多くの候補があって、どこだと決められない。

楡柳:これらの植樹によって”遼の騎兵の侵入を防いだ”と林本は言う。

保甲:=保甲法。wikipediaより引用。

1070年(熙寧3年)12月施行。弱体化した軍隊と郷村制の再編を目的とした法。10戸を1保、5保を1大保、10大保を1都保とし、保の中では互いに犯罪監視を行わせ、犯罪が起きた場合には共同責任とする。保の中で簡単な軍事訓練を行わせ、民兵とする。

都作院:宋代、兵器の製造に当たった官庁。

燕:五代の後晋が建国の際、遼に割譲したいわゆる燕雲十六州
燕雲十六州
©Jason22

王安石:1021-1086。
王安石

將欲取之、必姑與之:出典は『老子道徳経』。

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