十八史略・巻六北宋:神宗(13)

王安石の辞任

十八史略・原文

安石再相二年、屢謝病。子雱死、求去尤力。上益厭其所爲、出判江寧府、遂不復用。自安石用事、口談先王、而專行管商之政、知上有冨强之志、思所以濟其欲。謂立法當用小人、而後以君子守之。不悟其無是理也。天下騷然、而國未嘗冨。邊鄙生事、徒多喪敗、而國未嘗强。西鄙自治平末种諤取綏州、夏人卽欲興兵報復。

十八史略・書き下し

安石再び相たりて二年、屢ば病にことわる。子雱死するに、去るを求むるに尤もつとむ。上益す其の為す所を厭い、出だして江寧府に判たらしめ、遂に復た用い不。

安石の事を用いる自り、口に先王をかたり、し而専ら管商之政を行い、上に富強之志有るを知りて、以て其の欲をす所を思う。法を立つるを謂うに小人を当て用い、し而後に君子を以て之を守らしむ。其の是しき理無きを悟ら不る也。

天下騒然たりて、し而国未だ嘗て富まず。辺鄙の事を生むや、徒に喪い敗るる多く、し而国未だ嘗て強からず。西の鄙治平の末自り种諤綏州を取りて、夏人即ち兵を興して報いむくいんと欲す。

十八史略・現代語訳

王安石が再び宰相となって(1075)翌年になると、何度も病を理由に辞任を願い出た。子のホウが先立ってしまうと(1076)、しきりに辞任を求めるようになった。神宗も王安石の行状を以前にも増して嫌ったので、転出させて江寧府の通判(監察官)に任じ(1076)、二度と復権させなかった。

王安石は政策を語るのに、いつもいにしえの聖王の徳治主義を引き合いに出したが、実際に行ったのは管仲や商鞅のような苛烈な法治主義で、主君の神宗に富国強兵の願いがあるのを察知して、その実現を図った。立法の当初は人品の卑しい者に仕事をさせておき、確立した後になるとそれを志操堅固な君子にまで守らせた。そこに理の当然が無い事を悟れなかったのである。

おかげで天下は大騒ぎになったが、財政を立て直すことは出来なかった。異民族と国境紛争が起こると、無駄に敗北を重ねただけで、国軍を増強することは出来なかった。西の辺境では、治平年間(1064-1067)の未にチュウガクスイ州(陝西省)を占領してから、西夏人はすぐさま軍を動員して仕返しにかかった。

十八史略・訳注

王安石:1021-1086。
王安石

子雱:=王雱(オウ・ホウ)。1044-1076。

判:=通判。地方政府の監督官。

江寧府:現在の南京市。
華南地図

先王:尭・舜・禹・湯王・文王といった古代の聖王。
堯 禹

管商:管仲と商鞅。
商鞅
右:©Fanghong

治平:英宗の年号。1064-1067。

种諤:1017-1083。

綏州:現在の陝西省楡林市綏徳県。
華北地図

十八史略・付記

王安石については京都学派を先頭に、研究が積み重なっているから、訳者如きは個人的感想しか言えないが、神宗皇帝も勝手なものだ。それと王安石が失脚した最大の契機は、前回訳した契丹への領土割譲だろう。老子を盾にとって、高慢ちきを決め込んでいる場合では無かった。

映画『ゴッドファーザー』のセリフに、確か「クスリだけはいかん。全てを敵に回す」とあったやに思うが、専権を極める権力者も、領土を売った売国奴、という世論の猛烈には抗せない。だからこそ昭和前半の軍部や現中国のように、強権政治は無茶な拡大をやりたがる。

王安石失脚の真の理由なるものは、恐らくどこにも無いだろう。とどめを刺したのは神宗の身勝手だが、それまでさまざまあって、失脚したのだ。しかし十八史略を編んだ曽先之の心象風景では、おそらく訳者が読み取った通りに、売国をその根源だと言いたいのだろう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)