十八史略・巻六北宋:神宗(14)

熙寧年間の戦乱

十八史略・原文

夏主諒祚卒。子秉常立、大入寇。安石雖用王韶取熈河之策、徒構怨西蕃、致鬼章等屢爲寇患、初不能以此制西夏。所用沈起・劉彛、又釁南方。交趾李日遵卒、子乾德立。起・彛相繼知桂州。集土丁爲保甲、於海濱集舟師敎水戰、禁止州縣與交人貿易。交人大擧入寇、圍邕州、陷欽廉、聲言、中國作靑苗・助役法以困民、出兵相救。安石怒、遣趙卨等討之。官軍死者十六。兵禍訖安石之去而未已。吳充・王珪繼安石爲相。充先在政府、數言政事非便。旣代安石。蔡確・鄧潤甫等共攻之、不能去。

十八史略・書き下し

夏主諒祚卒す。子秉常立ち、大いに入りて寇なす。安石王韶の煕河を取る之策を用うと雖も、徒に西蕃に怨みを構え、鬼章等の屢ば寇患いを為すを致し、初めて此を以て西夏を制うる能わ不。

用うるの沈起・劉彛、又た南方にちぬる。交趾の李日遵卒し、子の乾徳立つ。起・彛相い継ぎて桂州を知む。土丁を集めて保甲を為り、海浜於舟師を集めて水戦を教え、州県与交人の貿易を禁じ止む。

交人大いに挙げて入りて寇なし、邕州を囲み、欽廉を陥し、よばいて言く、中国青苗・助役法を作りて以て民をわずらわす、兵を出して相い救わんと。安石怒り、趙卨等を遣わして之を討つ。官軍の死せる者十に六たり。兵の禍い、安石之去るにおよび而未だ已まず。呉充・王珪安石を継ぎて相為り。充先に政府に在りしとき、数ば政事の便に非ざるを言う。既に安石に代る。蔡確・鄧潤甫等共に之を攻めども、去らしむ能わ不。

十八史略・現代語訳

西夏の主であるリョウ(毅宗)が世を去った(1068)。子のヘイ常(恵宗)が即位すると、宋へ大規模に侵入してきた。王安石は、王韶の献策である煕河奪取計画に従っていたが、無意味に西方の蛮族の恨みを買い、カク国(=青唐。ゾンカ国)の鬼章などがたびたび攻撃してくる結果を招き(1074~)、こうしてとうとう、西夏を制圧することが出来なくなった。

また王安石が登用した、沈起・劉は、南方での戦を招いた。ベトナム李朝の李日ジュン(聖宗)が世を去り、子の乾徳(仁宗)が即位した(1072)。沈起と劉彛は、相次いで桂州(広西荘族自治区)の知事になったが(沈起は1073)、現住民を集めて民兵を組織し、海岸に船頭を集めて水上での戦いを教え、中国人とベトナム人との貿易を禁じた。

それ故ベトナム人はどっと押し寄せて侵入し、ヨウ州(広西荘族自治区)の都城を包囲し、欽州・廉州(ともに広西荘族自治区)の都城を陥落させ(1075)、その際にこううそぶいた。「中国は青苗法や助役法で民百姓をいじめている。だから兵を出して救ってやるのだ。」王安石は怒り、趙セツらを遣わして李朝軍を討伐したが、宋の官軍の戦死者は、十人の内六人にも上った。

戦禍は王安石が辞職しても止まなかった。呉充・王珪が王安石を継いで宰相になった(1076)。呉充は以前政権内にあったとき、何度か政策の行き詰まりを公言した。そして王安石に取って代わってから、蔡確・鄧潤甫らが非難を浴びせたが、失脚させることは出来なかった。

十八史略・訳注

夏:=西夏。1038-1227。タングート族の王朝。
北宋地図

諒祚:1047-1068。西夏の毅宗。

秉常:音ヘイ・ジョウ。1061-1086。西夏の恵宗。

王安石:1021-1086。
王安石

王韶:1030-1081。
王韶

熈河:=熈河路。現在の甘粛省臨洮県一帯。

鬼章:=青宜結鬼章ゾンカ国(青唐・カク国、1032-1114)の将軍。

沈起:1017-1088。

劉彛:1029-1086。『宋史』では劉彝と書いている。

:音キン。出来上がった青銅器に牛の血を塗りつけてお清めすることだが、史料では戦乱を意味する言葉として通時代的に用いられる(李鴻章の電文で見たことがある)。「ちぬる」「ちまつり」と訓読みする。古くからの異体字として、衅・舋と書かれる場合がある。

釁 衅 舋

交趾:ベトナムの李朝。1009-1225。

李日遵:音リ・ジツ・ジュン。李聖宗。1023-1072。李朝第三代皇帝。

乾德:李仁宗。1066-1127。李朝第四代皇帝。

桂州:現在の広西荘族自治区・桂林市一帯。
蜀雲南地図

舟師敎水戰:「舟師」の解釈が確定せず、”水軍を集めて海戦を訓練させた”とも読めるし、”船頭を集めて水上の戦いを教えた”とも読める。

邕州:音ヨウ・シュウ。現在の広西荘族自治区南寧市一帯。

欽廉:欽州(現広西荘族自治区欽州市)・廉州(広西荘族自治区北海市)。

靑苗:=青苗法。wikipediaより引用。

1069年(熙寧2年)9月に施行。宋代には天災による飢饉に対する備えや貧民救済のために穀物を蓄えておく常平倉・広恵倉というものがあった。しかしこれの運用がまずく、蓄えられている穀物が無駄に腐っていくことも多かったので、これを利用して農民に対する貸付を行った。
毎年、正月と5月に貸付を行い、基本は貨幣(これを青苗銭と呼ぶ)による貸付・穀物による返済であるが、望むものには穀物での貸付・貨幣での返済を認める。利息は3割と民間の高利貸しと大差が無い。
貸付にあたり、10戸が集まって1保を作り、この間で連帯保証を行う。これの実施のために、全国の路(宋の地方における最大行政単位)ごとに提挙常平司を置く。

助役法:それまで比較的裕福な民に課していた労役(差役)が重いので、免役銭を取る代わりに労働力を政府で雇用したが、さらにそれまで差役を免除されていた官戸(官僚の世帯)・寺院・道観・坊郭戸(都市住民)・単丁戸(男の単身世帯)・未成丁戸(未成年だけの世帯)・女戸(女性だけの世帯)からも、免役銭の半額を助役銭として徴収した。事実上の増税になった。

趙卨:音チョウ・セツ。1027-1091。

官軍死者十六:この戦争の詳細は、wikipediaの「宋越煕寧戦争」に詳しい。

吳充:1021-1080。

王珪:1019-1085。

蔡確:1037-1093。

鄧潤甫:1027-1094。

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