十八史略・巻六北宋:神宗(16)

蘇東坡の裁判

十八史略・原文

乃追軾繋御史獄、詔定與張璪推治。應珪言、軾有不臣意。擧軾檜詩。根到九泉無曲處、世閒惟有蟄龍知。陛下飛龍御天。而軾彼欲求之地下之蟄龍。非不臣而何。上曰、彼自咏檜。何預朕事。上本無意罪軾、吳充・王安禮、皆勸上容之。獄成而有是命。弟轍亦坐救軾而貶。坐軾詩案黜罸者、張方平・司馬光以下二十二人。上實憐軾、尋移汝州。且復用矣、爲蔡確・張璪等所沮。

十八史略・書き下し

乃ち軾を追いて御史の獄に繋ぎ、定与張璪に詔して推治せしむ。

応珪言く、軾は臣なら不る意有りと。軾の檜の詩を挙ぐ。根は九泉に到りて曲がる処無し、世間惟だ蟄竜の知る有りと。陛下は飛竜の天に御するなり。し而軾は彼れ之を地下之蟄竜に求めんと欲す。臣なら不るに非ずし而何ぞやと。上曰く、彼れ自ら檜を詠む。何ぞ朕の事に預らんと。上本と軾を罪する意無く、呉充・王安礼、皆な上に勧めて之をゆるす。獄成り而是の命有り。弟の轍亦た軾を救うに坐し而貶めらる。軾の詩案に坐して黜罰さるる者、張方平・司馬光以下二十二人なり。上実は軾を憐み、尋いで汝州に移す。且つ復た用い矣んとするも、蔡確・張璪等の沮む所と為る。

十八史略・現代語訳

李定とジョタンの告発があったので、そこで蘇軾をさらに御史台の裁判にかけ、李定と張璪に詔書を下して取り調べさせた。

宰相の応珪が「蘇軾は臣下にあるまじき不逞の心があります」と言って、蘇軾の檜の詩を証拠に挙げた。いわく、「その根は九層も隔てた地下まで伸びてよじれ一つ無い。それを知るのは世にただ一人、地下に住まう竜だけだ。」応珪は続けた。「陛下は飛竜に乗って天を駆けるべきお方です。ところが蘇軾は、陛下を地獄の竜のように扱っております。臣下にあるまじき振る舞いに非ずして、何でございましょう。」

神宗は言った。「蘇軾は好き勝手に檜を詩にしたまでだ。わしにかかわりはあるまい。」神宗は元々蘇軾を罰するつもりは無く、呉充と王安礼が、そろって口添えしたので許すことにした。だから裁判の判決は出たが、赦免の勅命が出て黄州(湖北省)への左遷で済んだ。

蘇軾の弟、蘇轍もまた蘇軾を弁護したかどで左遷された。蘇軾の詩の一件に連座して左遷や処罰にあった者は、張方平や司馬光以下、二十二人に上った。神宗はその実は蘇軾を憐れんで、黄州に左遷したのに次いで汝州(河南省)に移した。さらに再び朝廷で用いようとしたが、蔡確・張璪らに諌められてかなわなかった。

十八史略・訳注

蘇軾:1037-1101。
蘇軾

繋御史獄:林本は”御史台の牢獄に繋ぎ”と訳すが、「獄」の意味は”裁判”であって、それに伴って収監があるのだから、この訳は受け入れがたい。

定:=李定。1028-1087。

張璪:?-1093。

推治:=推問。罪状を取り調べること。

上:=神宗。1048-1085。
宋神宗

吳充:1021-1080。

王安禮:1034-1095。

弟轍:=蘇轍。1039-1112
蘇轍

張方平:1007-1091。

司馬光:1019-1086。
司馬光

汝州:現在の河南省汝州市一帯。
華北地図

蔡確:1037-1093。

十八史略・付記

中国の官界(官場という)の特徴の一つに閾値というものがあり、加えて安定する領域が極めて狭く、少しでも勢いがいいと皆こぞって褒めそやすが、少しでも調子が悪いと皆束になって貶めにかかる。その結果、有りもしない罪をなすりつけられて退場するはめになる。

日本でも山奥の寒村にこうしたSM社会が根を張っているが、中国の官場は今なおこうしたけしきにあり、千年二千年前とちっとも変わっていない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)