資治通鑑、完成す
十八史略・原文
冨弼上遺表言、忠諫杜絕、諂諛日進、興利之臣、爲國斂怨。又言、西事大可憂。望留聖念。弼早有公輔之望、名聞夷狄、遼使每至、必問其出處安否。忠義之性、老而彌篤、家居一紀、斯須不忘朝廷。至是薨。
宰相同對。上有無人才之歎。蒲宗孟曰、人才半爲司馬光邪說所壞。上不語、視宗孟久之、曰、蒲宗孟、乃不取司馬光邪。宗孟尋罷。司馬光資治通鑑成。上卽位之初、已嘗御製序。至元豐七年、書始上。初官制將行、上欲取新舊人兩用之。曰、御史大夫非司馬光不可。蔡確曰、國是方定。願少遲之。旣而上有疾。又曰、來春建儲、當以司馬光・呂公著爲師保。公著夷𥳑子也。
十八史略・書き下し
富弼遺表を上せて言く、忠諌杜じ絶え、諂諛日に進み、利を興す之臣は、国の為に怨みを斂むと。又た言く、西の事大いに憂うる可し。望むらくは聖念を留めんことをと。
弼早に公輔之望み有り、名は夷狄に聞え、遼使至る毎に、必ず其の出処安否を問う。忠義之性、老い而弥や篤く、家の居ること一紀にして、斯須も朝廷を忘れ不。是に至りて薨ず。
宰相対いを同じくす。上人才之無きを歎く有り。蒲宗孟曰く、人才半ばは、司馬光の邪説の壊る所と為ると。上語ら不、宗孟を視ること之を久しくして、曰く、蒲宗孟、乃司馬光を取ら不る邪と。宗孟尋いで罷めらる。
司馬光の資治通鑑成る。上即位之初め、已に嘗て序を御製す。元豊七年に至り、書始めて上る。
初め官制将に行われんとするや、上新旧の人を取りて之を両ら用いんと欲す。曰く、御史大夫司馬光に非ざらば可なら不と。蔡確曰く、国の是方に定まらんとす。願わくば少しく之を遅らせんと。
既にし而上疾有り。又た曰く、来春儲けを建つらば、当に司馬光・呂公著を以て師保為らしめんとすと。公著は夷簡の子也。
十八史略・現代語訳
富弼が遺言の上奏文に書き記した。「忠義者や正直に諌める者が絶え果てて、媚びへつらう者が日ましに御前に増え、国のために利益を生み出すはずの臣下は、国のために怨み集めています。」さらに記した。「西の国境紛争は大いに憂うるべきです。お心を止め置かれますようお願い申し上げます。」
富弼は若い頃より、最高の官職である三公四輔にふさわしいとの声望があった。名前は蛮族にも知られ、遼の使いが来るたびに、必ず富弼の動静や安否を問うた。忠義の心は、老いてもますます篤く、引退して家に居た十二年の間、片時も朝廷を忘れなかった。しかしついに世を去った(1083)。
ある日、宰相たちが共に神宗と面談していた。神宗は人材がいないのを嘆いた。資政殿学士の蒲宗孟が言った。「人材の半分ほどは、司馬光がよこしまな事を言いふらしたせいでダメになってしまいました。」神宗は黙ったまま、しばらく蒲宗孟を見つめていたが、おもむろに言った。「蒲宗孟よ、そなたは司馬光がダメだと思っているのか。」それから間もなく蒲宗孟はクビになった(1083)。
司馬光の『資治通鑑』が完成した(1084)。神宗は即位の当初、すでに『資治通鑑』の序文を手ずから書いた。元豊七年(1084)になって、『資治通鑑』は初めて献上された。
新しい官制が施行されるに当たって、神宗は新旧の人材を取り混ぜて用いようとして言った。「御史大夫(監察長官兼副宰相)は司馬光でなければならない。」すると宰相の一人である蔡確が言った。「国の方針は今すぐに決まろうとしています。司馬光の任用は、どうか少しお待ちくださいますよう。」
この頃、すでに神宗は病魔に取り付かれていた。それを踏まえて神宗は言った。「来春には皇太子を決めよう。その時は必ず、司馬光と呂公著を家庭教師と守り役に任じなければならない。」呂公著とは、呂夷簡の子である。
十八史略・訳注
富弼:1004-1083。
表:君主や役所に対し、心意を表明するために書いた文章様式の名。また、その書。
杜絕:ふさがり絶える。続いていた物事がとだえること。
諂諛:音テン・ユ。こびへつらい。諂は相手を落とし入れるようなへつらいで、諛はくねくねとすり抜けるようなへつらい。
公輔:三公(太師・太傅・太保)と四輔(太師・太傅・太保・少傅)。
遼:契丹人の王朝。916-1125。
斯須:音シ・シュ。しばらく。ひと時。暫時。《類義語》須臾。
紀:十二支が一巡りする十二年間。
蒲宗孟:1022-1088。
司馬光:1019-1086。
宗孟尋罷:神宗に詰問されてからほぼ一年で、酒浸りと色狂いを理由にクビになったと『宋史』にはある。
元豐七年:1084・元豊は神宗の年号の一つ。1078-1085。
御史大夫:監察を任とする御史台の長官で、事実上の副宰相。
蔡確:1037-1093。
呂公著:1018-1089。
師保:=師傅。周代の三公(太師・太傅・太保)と三孤(少師・少傅・少保)の総称。天子の顧問や皇太子の教育係をし、名誉ある高官であった。「師傅保」ともいう。
夷𥳑:=呂夷𥳑。979-1044。