十八史略・巻六北宋:神宗(19)

神宗崩御

十八史略・原文

上在位十八年、改元者二、曰熈寧・元豐。厲精求治、日昃不暇食。平生不御畋游、不治宮室、惟勤惟儉、將以大有爲也。奈何熈寧以來誤於安石、元豐以後用事者、終始皆安石之黨。竟爲天下患。憤北狄倔强、慨然有恢復幽燕之志。欲先取靈夏滅西羌、乃圖北伐、及安南失律、喟然歎赤子無罪而死、永樂之敗益知用兵之難、始息念征伐。卒無一事如意崩。年三十八。皇太子立。是爲哲宗皇帝。

十八史略・書き下し

上位に在ること十八年、改元者二、曰く煕寧・元豊。はげはげみて治るを求め、日かたむくまで食うに暇あら不。平生りして游ぶをおさめ不、宮室を治め不、惟だ勤め惟だ倹み、将に以て大いに為す有らんとする也。

奈何せん煕寧以来安石於誤り、元豊以後事を用うる者も、終始皆な安石之党なり。竟に天下の患いを為す。

北狄の倔強たるに憤り、慨然として幽燕を恢復する之志有り。先に霊夏を取り西羌を滅し、乃ち北に伐つを図らんと欲すも、安南ののりを失うに及びて、喟然として赤子の罪無くし而死すを歎き、永楽之敗れは益す用兵之難きを知り、始めて征伐を念うを息む。

卒に一事だに意の如きもの無くして崩ず。年三十八。皇太子立。是れを哲宗皇帝と為す。

十八史略・現代語訳

神宗皇帝は、皇帝の位に十八年あり、改元は二度、煕寧・元豊と言う。努力して天下太平を求め、午後になるまで食事に手を付ける暇が無かった。普段から狩りや遊びに出ず、宮殿の造築を行わず、ひたすら努力しひたすら節約し、先々の大成功を目論んでいた。

しかしどうしようも無い事に、治世前半の煕寧年間(1068-1077)から王安石につまずいて政治を誤り、後半の元豊年間(1078-1085)になってからも、登用した者は皆、王安石の一党だった。それでとうとう、天下に被害をもたらした。

北の蛮族である契丹人の遼が強大であるのに憤り、悲しみに心を乱しつつも、遼の占領下にある幽州(北京市)・燕州(河北省)を取り戻そうとの決意があった。そこでまず、西夏を攻撃してそれを筆頭とする西方の異民族を滅ぼし、その後で北の遼を攻めようと計画していたが、ベトナムの李朝がそむくに及んで、ため息をつきながら宋国軍の兵士が罪もなく死んでいったのを嘆き、永楽城での敗戦では、軍を用いることの難しさを知り、そうしてやっと征伐をたくらむのを止めた。

とうとうただの一つも思い通りにならないまま、世を去った。享年三十八。皇太子が即位した。これを哲宗皇帝と呼ぶ。

十八史略・訳注

熈寧・元豐:それぞれ1068-1077、1078-1085。

厲:音レイ。原義は手荒く研ぐこと。ここでは音が通じて励と同義。

昃:音ショク。日が西に傾くこと。
昃

:音デン。田+攵(動詞を表す記号)で、原義は畑を耕すこと。転じて狩猟を意味する。通常「田猟」と書くが、気取って攵が付く場合がある。

奈何:=如何。方法や手段を問う疑問視。

王安石:1021-1086。
王安石

北狄:契丹人の建てた(916-1125)を指す。

慨然:=概然。悲しんで、心がみだれるさま。

幽燕:幽州(現在の北京市一帯)と燕州(現在の河北省涿タク鹿県一帯)。

靈夏:霊州(現在の寧夏回族自治区銀川市)と西夏(1038-1227)。
北宋地図

乃:「すなわち」と読み、前後の状況に曲折がある場合に用いる。ここでは”そこでやっと・そこではじめて”と訳す。前節の結果をうけて、あらためて後節の行為・状態がおこる意を示す。

西羌:中国西方の異民族、西夏や吐蕃(618-842)およびその継承国を指す。ここでは必ずしも羌族に限定していない。

安南:=ベトナム。同時代的には李朝(1009-1225)だった。

喟然:音キ・ゼン。ため息をついて嘆いたり感動したりすること。

永樂:=永楽城。永楽城の戦いを参照。

哲宗皇帝:1077-1100。宋の第七代皇帝。
宋哲宗

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