哲宗擁立前のドタバタ劇
十八史略・原文
哲宗皇帝名煦、初爲延安郡王、神宗大漸、立皇太子。先是蔡確遣舍人邢恕、邀高公繪、欲使白太后。言、延安冲幼。岐・嘉皆賢王也。公繪懼曰、公欲禍吾家。亟去。恕包藏禍心、反謂、太后與王珪表裏、欲捨延安而立子顥、賴己及章惇・蔡確得無變。且播其說於士大夫閒矣。
十八史略・書き下し
哲宗皇帝名は煦、初め延安郡王為り、神宗大漸なるに、皇太子に立てらる。
是より先蔡確舎人邢恕を遣し、高公絵を邀え、太后に白せ使めんと欲す。言く、延安冲幼たり。岐・嘉皆賢王也と。
公絵懼れて曰く、公吾が家に禍いを欲す。亟に去れ。恕禍なす心を包み蔵して、反りて謂く、太后与王珪表裏なし、延安を捨て而顥を子に立てんと欲し、己及び章惇・蔡確に頼りて変無きを得と。且つ其の説を士大夫の間於播き矣。
十八史略・現代語訳
哲宗皇帝、名は煦、元は延安郡王だったが、神宗が危篤になるに及んで、皇太子に立てられた。
その以前に、蔡確が舎人(皇帝の身近で記録を掌る)の邢恕を、英宗の皇后で太后となっていた宣仁皇后の甥、高公絵のもとに送り、機嫌を取って太后に言わせようとした。すなわち、「延安郡王はまだ幼い。お子の岐王・嘉王は優秀で、太子にふさわしい」と。
しかし高公絵は怖がって言った。「あなたは我が家に災いをもたらそうというのですか。早く帰って下さい。」追い返された邢恕は仕返しついでに、戻って蔡確に言った。「太后と王珪はつるんでいます。延安郡王を捨てて岐王の顥を太子に立てるつもりです。それで私と章惇、それにあなた(蔡確)に頼って、事を無事に進めようとしています。」そしてこれを噂として士大夫の間にばらまいた。
十八史略・訳注
哲宗皇帝:1077-1100。宋第七代皇帝。位1085-1100。
煦:音ク。語義はあたためる。
延安:延安郡。延州とも称された。
郡王:中国で親王に与えられる地位の一つで、名目上、一郡の君主となる。
神宗:1048-1085。宋の第七代皇帝。
大漸:危篤を意味する古い漢語。
蔡確:1037-1093。
舍人:=起居舎人。皇帝の日常を記録する官職。
邢恕:生没年未詳。進士。悪賢かったらしい。詳細は十八史略哲宗(8)の付記を参照。
高公繪:英宗の妃である宣仁皇后の甥。生没年未詳。
太后:=宣仁皇后。1032-1093。
冲幼:体がまだ柔らかくて幼い。冲は沖の俗字だと『大漢和辞典』は言うが、『学研漢和大字典』は「冫(こおり)+(音符)中」の形声文字という。氷をとんとんと突き割る音をあらわし、中和の中(かどがない、柔らかい)の意にも用いる、という。
岐・嘉:岐王(趙顥。1050-1096)と嘉王(趙頵。1056-1088)。共に宣仁皇后の子。
王珪:1019-1085。
章惇:音ショウ・トン。1035-1105。
蔡確:1037-1093。
十八史略・付記
邢恕の行状は、『宋史』邢恕伝によると次の通り。
つまり蔡確に報告したのは「太后と王珪がつるんで、雍王を太子に立てようとしている」までであり、事が失敗に終わってから負け惜しみのように、自分に哲宗擁立の功績があると言いふらしたことになっている。