十八史略・巻七北宋:哲宗(3)

司馬光、政権の一員となる

十八史略・原文

王珪卒。蔡確・韓縝爲左右僕射、章惇知樞密院。司馬光門下侍郞。光居洛十五年、兒童走卒皆知司馬君實。神宗升遐、赴闕入臨。衞士望見、以手加額曰、司馬相公也。爭擁馬首呼曰、公毋歸洛。留相天子活百姓。所在數千人聚觀之。光懼歸洛。已而召爲執政。

十八史略・書き下し

王珪卒す。蔡確・韓シン左右僕射為りて、章トン枢密院を知む。司馬光門下侍郎たり。

光洛に居ること十五年、児童走卒皆な司馬君実を知る。神宗升遐するや、闕に赴き入りて臨む。

衛士望み見、手を以て額に加えて曰く、司馬相公也と。争いて馬の首をいだきて呼ばわりて曰く、公洛に帰る毋れ。留まりて天子に相たりて百姓を活かせと。

在る所の数千人聚りて之を観る。光懼れて洛に帰る。已にし而召されて執政為り。

十八史略・現代語訳

哲宗即位の年、王珪が世を去った(1085)。蔡確・韓シンが左右の僕射(宰相)となって、章トンが枢密院(大本営)の事務長官となった。司馬光は門下省(詔勅案を審議する官庁)の侍郎(次官、門下侍郎は事実上の副宰相)になった。

司馬光は洛陽での勤務が十五年続き、まちの子供や役所の使い走りも、みな司馬君実(司馬光の字)を見知っていた。神宗が世を去ると、司馬光は皇宮に赴いて弔問しようとした。

皇宮の衛士が遠くから司馬光を見つけて、手を額に当てて言った。「司馬の宰相様じゃ。」衛士は争うように司馬光の馬の首に取り付き、「司馬様、どうか洛陽に帰らないで下さい。首都に止まって天子様の宰相となり、民百姓をお救い下さい」と言った。

そこに居た数千人の者が、群がってこの光景を見た。司馬光は恐れを抱いて洛陽に帰ってしまった。しかし今、哲宗に召されて執政の一人となった。

十八史略・訳注

王珪:1019-1085。

蔡確:1037-1093。

韓縝:音カン・シン。1019-1097。

左右僕射:僕射は音ボク・ヤ。行政実行官庁である尚書省の二人の長官。宰相を意味する。

章惇:音ショウ・トン。1035-1105。

樞密院:最高軍令機関で、大本営に当たる。知枢密院は大本営事務総長。

司馬光:1019-1086。
司馬光

門下侍郞:門下は門下省。上奏文と詔勅を審議した。侍郎は次官に相当する。

君實:司馬光のあざ名。

神宗:1048-1085。宋の第七代皇帝。
宋神宗

升遐:=崩御。音ショウ・カ。升はのぼる、遐ははるか。天子が世を去ることの婉曲表現。

闕:宮殿の門の左右に建てられたやぐら。皇宮、朝廷を意味する。
闕

入臨:弔問に訪れること。

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