十八史略・巻七北宋:哲宗(7)

北宋の大儒・張載と邵雍ショウヨウ

十八史略・原文

張載字子厚、初無所不學。後聞二程之言、乃盡棄其學而講焉。有東銘・西銘・正蒙・理窟等書。行于世。人謂之橫渠先生。共城邵雍字堯夫、居河南、與二程友。雍之學、玩心高明、觀天地變化、陰陽消長、以逹萬物之變。精於物數、推無不中。顥嘗在考試院。以其數推之。出謂雍曰、堯夫數只是加一倍法。雍歎其聰明。

十八史略・書き下し

張載字は子厚、初め学ば不る所無し。後二程之言を聞き、乃ち其の学を尽く棄て而きわたり。東銘・西銘・正蒙・理窟等の書有り。世于行わる。人之を横渠先生と謂う。

共城の邵雍字は尭夫、河南に居り、二程与友なり。雍之学、心を高明にあそばせ、天地の変化、陰陽の消長を観、以て万物之変りをさとる。物の数於精しく、推して中ら不る無し。顥嘗て考試院に在り。其の数を以て之を推す。出でて雍に謂いて曰く、尭夫の数只だ是れ加一倍法のみと。雍其の聡明をたたう。

十八史略・現代語訳

張載、あざ名は子厚、元は何事も学ばない分野が無かった。後になって程兄弟の話を聞き、それまで学んだことを全て捨て去って、儒学を研究した。「東銘」・「西銘」・『正蒙』・『理窟』などの著作があって、世の中に広まった。人は張載をその住所から、横キョ先生と呼んだ。

共城の邵雍ショウヨウ、あざ名は尭夫、河南(洛陽)に住み、程兄弟と友人だった。邵雍の学問は、清らかに澄んだ世界に心を遊ばせ、天地の変化や陰陽の消長を観察して、それで万物の変化を知るものだった。数学に詳しく、演算して占いが当たらなかったことがない。

コウが科挙の試験場にこもって、邵雍の編み出した演算法を使って占ってみた。出てきて邵雍に言った。「尭夫くん、君の演算法は加一倍法なんだね。」邵雍は程顥の聡明さを知って思わずため息をついた。

十八史略・訳注

張載:1020-1077。
張載 張載

二程:程明道程伊川兄弟を指す。

東銘・西銘・正蒙・理窟:東銘・西銘については、林本に”諸生を戒めるために、塾の東西のまどに掲げた銘文。特に西銘は有名である”とある。寡聞ながら訳者はその有名な銘文を知らない。悔しいので中国哲学書電子化計画から引くことにした。

乾稱父、坤稱母。予茲藐焉、乃混然中處。故天地之塞、吾其體。天地之帥、吾其性。

 民吾同胞、物吾與也。大君者、吾父母宗子、其大臣、宗子之家相也。尊高年、所以長其長。慈孤弱、所以幼其幼。聖其合德、賢其秀也。凡天下疲癃殘疾、煢獨鰥寡、皆吾兄弟之顛連而無告者也。于時保之、子之翼也。樂且不懮、純乎孝者也。違曰悖德、害仁曰賊。濟惡者不才、其踐形唯肖者也。知化則善述其事、窮神則善繼其志。不愧屋漏為無忝、存心養性為匪懈。惡旨酒、崇伯子之顧養。育英才、麕封人之賜類。不弛勞而间豫、舜其功也。無所逃而待烹、申生其恭也。體其受而歸全者、參乎﹗勇于從而順令者、伯奇也﹗富貴福澤、將厚吾之生也。貧賤懮戚、庸玉汝于成也。存吾順事、沒吾寧也。

橫渠先生:林本に”鳳翔県横渠に住んだので、斯くいう”とある。渠は水路を意味する。

共城:現在の河南省輝県市一帯。

邵雍:1012-1077。
邵雍

顥:=程明道。

考試院:科挙の試験場。
考試院

加一倍法:林本に”その数の開展するたびに一倍を増加する法。太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ずるの類”とある。訳者には易を理解する能は無くそのつもりもないので、コピペでお茶を濁すことにする。以下はwikipediaより引用。

邵雍

易学としては「1→2→4→8→16→32→64」と進展する「加一倍の法」や、四季の4、十干の10、十二支の12、一世三十年の30など、中国人になじみの深い数を適宜に掛けあわせる数理計算によって、万物生成の過程や宇宙変遷の周期などを算出しようとした。数を通して理を考えようとした点は、朱熹の易学に影響を与えたと考えられる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%B5%E9%9B%8D

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  1. […] 中国人は春秋のはるかな遠くに三角法を見出しながら、ついに数学をまともな学問として扱わなかった。最後の数学者と言える邵雍ショウヨウは、北宋の滅亡とともにその業績が消え果てて伝わらなかった。宋は最後のまともな政権である。その滅亡と共に、文明と言える中国は滅びた。 […]

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