十八史略・巻七北宋:哲宗(8)

北宋の大儒・ショウヨウ

十八史略・原文

雍欲以數學傳二程。二程不受。邢恕欲受。雍不許曰、徒長姦雄。雍有皇極經世書十二卷・擊壤集歌。傳于世。人謂之康節先生。冨弼・司馬光等、皆深敬重之。宋自歐陽脩、以古文倡天下、文章雖大變、而儒者義理之學、至周程出、然後大明。雍・惇頥・載、皆歿於神宗之世。至是顥又沒、惟頤在。學者宗之、爲伊川先生。

十八史略・書き下し

雍数学を以て二程に伝えんと欲す。二程受け不。邢恕受けんと欲す。雍許さ不して曰く、徒に姦なる雄をたすくるのみと。

雍皇極経世書十二巻・撃壌集歌有り。世于伝わる。人之を康節先生と謂う。富弼・司馬光等、皆な深く敬いて之を重んず。

宋は欧陽修自り、古文を以て天下に倡え、文章大いに変わると雖も、し而儒者の義理之学、周程の出づるに至りて、然る後ち大いに明かなり。

雍・惇頤・載、皆な神宗之世於歿ず。是に至りて顥又た没し、惟だ頤在るのみ。学者之を宗びて、伊川先生と為す。

十八史略・書き下し

ショウヨウは自分の編み出した数学を、程兄弟に伝授しようと思ったが、兄弟は受け付けなかった。一方で邢恕が伝授を願ったが、邵雍は許さないで言った。「ずる賢い男に、余計な悪知恵を付けるだけだ。」

邵雍には『皇極経世書』十二巻と、『撃壌集歌』という著作があり、世間に伝わった。人は康節先生と呼んだ。富弼や司馬光らは、みな深く敬って重んじた。

宋の時代は欧陽修から、体裁より内容を重んじる古文が盛んにもてはやされ、流行の文体は大いに変わったが、書き物の主題となる儒者の道徳や倫理学は、周敦頤や程兄弟が現れた後で、やっと大いに明かになった。

しかし邵雍・周惇頤・張載といった大学者は、みな神宗の時代に世を去り、代替わりして程コウもまた世を去ったので、ただ程だけが存命だった。だから学者は程頤を尊んで、伊川先生と呼んだ。

十八史略・訳注

雍:=邵雍。音ショウ・ヨウ。1012-1077。
邵雍

二程:程明道程伊川兄弟を指す。

邢恕:生没年未詳。進士。

富弼:1004-1083。
富弼

司馬光:1019-1086。
司馬光

欧陽脩:1007-1072。
欧陽脩

古文:先秦・漢代の文体。また、それを模範として六朝の四六文を排して韓愈柳宗元らが唱えた文体。ベン文を時文というのに対する。駢文とは文章の様式の名。四字と六字の対句をならべそろえて用い、音調を重んじ、故事を多く引用した技巧的な文章。六朝時代に最も流行した。

倡:唱える。唱の仮借。

義理之學:儒教道徳。

周程:周敦頤と程兄弟。なお林本のテキストでは、周敦・程と使い分けているようだ。

頥頤

張載:1020-1077。
張載 張載

神宗之世:1067-1085。

十八史略・付記

邢恕は『宋史』の姦臣伝(=悪党列伝)に載っており、悪賢い男だったらしい。中国語版のwikipediaに、その伝がざっとまとめられているので日本語訳する。

邢恕、字和叔、鄭州陽武(今河南原陽)人。

自小精通典籍、口若懸河、頗有縱橫傢氣度。熙寧年間(1069年~1077年)、中進士、補為永安主簿。從程顥學習、與司馬光、呂公著交遊、呂公著薦為崇文院校書、因反對王安石變法、齣知延陵縣、外放七年。十年、再為校書。吳充又任其為館閣校勘、不久遷為歷史館檢校、著作佐郎。邢恕追隨蔡確、纍遷職方員外郎。元豐八年三月、哲宗繼位、因“定策有功”遷左司員外郎、起居捨人。司馬光死後、邢恕彈劾司馬光、要查禁《資治通鑑》、程頤說他“義理不能勝利欲之心”。

元祐四年(1089年)、蔡確倒臺、貶永州監倉。元符中齣知汝州。徽宗時、蔡京專權、起用邢恕為鏖延經略安撫使、不久改為涇原經略安撫使、擢至龍圖閣學士。再為西北邊帥、以抗西夏。因不懂軍事、謀略乖方、徙知太原、永興、疑昌、真定等州府、不久奪職。


邢恕、あざ名は和叔、鄭州陽武(今河南原陽)の人。

幼い頃より古典に詳しく、口を開けば川の流れのようにしゃべり、世間師の性格が甚だ強かった。

熙寧年間(1069年~1077年)、進士に及第し、永安の主簿(帳簿係)に任じられた。程顥に弟子入りして学問を学び、司馬光、呂公著と交遊し、呂公著が推薦して崇文院の校書(宮中アカデミーの学者)になったが、王安石の新法に反対したかどで延陵県の知事に左遷され、七年間地方官をやらされた。

十年(1077)、再び校書に戻った。宰相の呉充によって、館閣校勘(宮中アカデミーの学者)となったが、すぐに歷史館検校(宮内歴史館の学者)、著作佐郎(歴史執筆官)になった。

邢恕は宰相の蔡確に取り入り、昇進を重ねて職方員外郎(国土地理院兼外務議官)になった。元豊八年(1085)三月、哲宗が即位すると、その擁立に功績があったとして左司員外郎(上奏文審査局議官)、起居舎人(皇帝の記録係)に昇進した。

司馬光の死後、邢恕は司馬光を弾劾し、『資治通鑑』を禁書にせよと言い出した。程頤は邢恕を「道徳が人に勝ちたい我欲に負けてしまっている」と言った。

元祐四年(1089年)、蔡確が失脚すると、巻き添えを食って永州監倉(倉庫番)に左遷された。元符年間(1098-1100)には汝州の知事になった。

徽宗の時代(1100-1126)、蔡京が専権を振るうと、邢恕を起用して鏖延経略安撫使(国境軍管区長官)に任じ、すぐに涇原経略安撫使(同じく)となり、ついで抜擢されて竜図閣学士(宮内学術顧問官)になった。

その後再び西北国境の辺帥(軍管区長官)となり、西夏とにらみ合った。しかし軍事に暗く、計略はでたらめだったので、太原・永興・疑昌・真定などの州府の知事に左遷されたのち、しばらくしてクビになった。

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コメント

  1. 余計な知恵 より:

    […] 前回のエントリを書いた後で、『十八史略』の訳に取りかかった所、符合するような話があった。今訳しているのは北宋だが、宋は文化史的には唐と同類にくくられる。しかし政治史的には変化があり、唐まで威張っていた貴族がすっかり落ちぶれ、士大夫の天下となった。 […]