十八史略・巻七北宋:哲宗(11)

王安石死す

十八史略・原文

章惇・韓縝罷。 

王安石卒。安石在金陵、常獨語福建子。恨惠卿也。惠卿叛安石。惟章惇終始不叛。安石又常曰、新法之行、終始以爲可行者、曾子宜也。終始以爲不可者、司馬君實也。 

呂公著右僕射。文彥博軍國重事。程頤崇政殿說書。蘇軾翰林學士。竄貶呂惠卿・鄧綰等。

十八史略・書き下し

章惇・韓縝罷めらる。

王安石卒す。安石金陵に在りて、常に独り福建子とえり。恵卿を恨む也。恵卿安石に叛く。惟だ章惇終始叛か不。

安石又た常に曰く、新法之行、終始以て行う可きと為す者は、曽子宜也。終始以て可から不ると為す者は、司馬君実也と。

呂公著右僕射たり。文彦博軍国重事たり。程頤崇政殿説書たり。蘇軾翰林学士たり。呂恵卿・鄧綰等をながおとしむ。

十八史略・現代語訳

元祐元年(1086)、知枢密院(大本営事務長官)の章トンと尚書右僕射(宰相の一人)の韓シンがクビになった。

王安石が世を去った。王安石は金陵(南京)で隠居していたが、いつも「あの福建人め」と漏らしていた。呂恵卿を恨んだのである。呂恵卿は、途中から王安石を裏切ったからだ。ひとり章惇だけが、始めから終わりまで裏切らなかった。

王安石はまた、常々こうも言っていた。「新法が施行されると、いつも”やるべきです”と言っていたのは曽子宜(曽布)、いつも”やってはなりません”と言っていたのは司馬君実(司馬光)だった。」

呂公著が右僕射になった。文彦博が軍国重事(宰相の一人)になった。程頤は崇政殿説書(宮内顧問官)になった。蘇軾が翰林学士(国立学士院所属の学者)になった。新法党の呂恵卿と鄧ワンらを、官位を下げて地方に左遷した。

十八史略・訳注

章惇:音ショウ・トン。1035-1105。

韓縝:音カン・シン。1019-1097。

王安石:1021-1086。
王安石

金陵:現在の南京市。

福建子:林本によると、福建人である呂恵卿のことだという。

呂惠卿:1032-1111。

曾子宜:=曾布。1036-1107。

司馬君實:=司馬光。1019-1086。
司馬光

呂公著:1018-1089。

右僕射:=尚書右僕射。宰相の一人。

文彥博:1005-1096。
文彦博

軍國重事:=平章軍国重事。宰相の一人。

程頤:音テイ・イ。=程伊川。1033-1107。

崇政殿說書:皇帝の学術顧問官。

蘇軾:=蘇東坡。1037-1101。
蘇軾

翰林學士:国立アカデミーで、詔書を起草する官庁でもある翰林院所属の学者。

鄧綰:1028-1086。音トウ・ワン。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)