十八史略・巻七北宋:哲宗(12)

司馬光死す

十八史略・原文

司馬光爲相、八閲月而薨。太皇太后哭之慟。上亦感涕不已。贈太師溫國公、諡文正。光在位、遼人・夏人使來、必問光起居。而遼人敕其邊吏曰、中國相司馬矣。切毋生事開邊隙。及卒、京師民罷市。畫其像、印鬻之、畫工有致冨者。及葬、四方來會者、哭之如哭其親戚。光嘗語晁無咎曰、吾無過人。但平生所爲、未嘗不可對人言者耳。劉安世問光一言可以終身行之者。光曰、其誠乎。安世問其所從入。曰、自不妄語入。

十八史略・書き下し

司馬光相為りて、八つ月を閲し而薨ず。太皇太后之を哭きてわななく。上亦た感じて涕して已ま不。太師温国公を贈り、文正を諡す。

光位に在るや、遼人・夏人の使い来たると、必ず光の起居を問う。し而遼人其のはてつかさいましめて曰く、中国の相司馬矣。切に事を生み辺に隙を開く毋れと。

卒するに及び、京師の民市を罷む。其の像を画きて、印して之を鬻ぎて、画工の富を致す者有り。葬むるに及び、四方の来たりてつどう者、之を哭くこと其の親戚を哭くが如し。光嘗て晁無咎に語りて曰く、吾人に過ぐる無し。但だ平生の為す所、未だ嘗て人に対して言う可から不る者なき耳と。劉安世光に一言以て終身之を行う可き者を問う。光曰く、其れ誠乎と。安世其の従い入る所を問う。曰く、妄りに語ら不る自り入れと。

十八史略・現代語訳

司馬光は宰相になって、八ヶ月過ぎに世を去った(1086)。太皇太后はその死を声を上げて泣き、わなないて悲しんだ。哲宗皇帝もまた感極まって涙が止まらなかった。そこで司馬光に太師の官位と温国公の称号を追贈し、文正とおくり名を付けた。

司馬光が宰相の地位にあると、遼や夏国の使いは来るたびに、必ず司馬光の普段の様子を問うた。そして遼国の人は、その国境付近の役人を戒めて言った。「今中国の宰相は司馬光である。くれぐれも、事件を起こし国境紛争を始めるようなことがあってはならない。」

司馬光が亡くなると、首都開封の民は商いを止めて哀悼の意を示した。ただしその肖像画を描き、刷って売り出すことで、絵描きには大金を稼いだ者がいた。葬儀の際は各地からの会葬者が声を上げて泣き、その泣きぶりは親戚に泣くのと同じぐらいだった。

司馬光は生前、チョウキュウに言った。「私は人並みの男でしかないよ。ただし、普段から人に言えないようなことはしてこなかっただけだ。」劉安世が司馬光に、「一生守るべき一言とは何でしょう」と問うと、司馬光は「誠実だろうね」と答えた。劉安世が「どこから始めればいいでしょう」と問うと、司馬光は「ウソをつかないようにすることから、始めるとよろしい」と答えた。

十八史略・訳注

司馬光:1019-1086。
司馬光

太皇太后:=宣仁皇后。英宗の皇后で高氏。1032-1093。
宣仁皇后

哭:声を上げて泣く。

慟:体を震わせて嘆く。

上:哲宗皇帝。1077-1100。宋第七代皇帝。位1085-1100。
宋哲宗 宋哲宗

文正:おくり名として「文」は最高で、更に「正」が付加された。宋代でこのおくり名を付けられたのは、司馬光の他范仲淹を筆頭に全てで九人となる。

遼人・夏人:それぞれ契丹(遼)・タングート人(西夏)の建てた国の人。
北宋地図

晁無咎:音チョウ・ム・キュウ。=晁補之。1053-1110。

劉安世:1048-1125。
劉安世

十八史略・付記

司馬光が北宋でも指折りの大物だったのは間違いないが、このように、”世を去って大勢がわあわあ泣きわめいた”と書かれたら、それは作り話だと考えるのが、中国史の常識である。版画で儲けた絵師がいたように、人前で泣きわめくのは、中国人にとっては見せ物商売の一つだ。

だから泣きわめいたのがもし本物でも、それは悲しかったからではない。ただし奇妙な精神作用があって、泣いているうちに悲しくなることはある。悲しい→泣く順序が、泣く→悲しいへと逆になる。その結果後追いで身投げや首つりすることもあるから、中国史は興味深い。

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