十八史略・巻七北宋:哲宗(13)

蘇東坡と程伊川の仲違い

十八史略・原文

蘇軾・程頤、同在經筵。軾喜諧謔、而頤以禮法自持。軾每嘲侮之。光之薨也、百官方有慶禮。事畢欲往弔。頤不可曰、子於是日哭則不歌。或曰、不言歌則不哭。軾曰、此枉死市叔孫通制此禮也。頤怒。二人遂成隙。門人朱光庭・賈易爲言官。力攻軾。傅堯兪・王巖叟・呂陶等、相繼論列。堯兪・巖叟右光庭、陶右軾。

十八史略・書き下し

蘇軾・程頤、同じく経筵に在り。軾諧謔を喜び、し而頤礼法を以て自らたもつ。軾つねに之を嘲り侮る。

光之薨ずる也、百官方に慶礼有らんとす。事畢りて弔いに往かんと欲す。頤から不として曰く、子是の日於哭すらば、則ち歌わ不と。或もの曰く、歌わば則ち哭か不と言わ不。軾曰く、此れいたずらに市に死せる叔孫通此の礼を制りし也と。頤怒る。二人遂に隙を成す。

門人朱光庭・賈易言官為り。力めて軾を攻む。傅尭兪・王巌叟・呂陶等、相い継ぎて列ねてことわく。尭兪・巌叟光庭をたすけ、陶軾を右く。

十八史略・現代語訳

ショクと程は、そろって哲宗皇帝のご進講役を勤めていた。ただし蘇軾は冗談を好み、程頤は礼法で自分の威厳を保っていた。蘇軾はそのもっともらしさを、事あるごとに小ばかにした。

1086年、司馬光が世を去った時、ちょうど朝廷ではめでたいお祭りごとがあった。官僚たちはお祭りが済んだ後で、司馬光の弔問に行こうとした。ところが程頤が「それはいかん」と言った。「論語にこうある。”孔子先生は葬礼のあった同じ日には、歌わなかった”と。」

ある者が言った。「確かにそう書いてある。でも歌った日に葬礼に行ってはいかん、とは書いてない。」蘇軾も言った。「その通りだ。そんなひち面倒くさい決まりは、盛り場で無駄死にでもしかねない、あの叔孫通がこしらえたに違いない。」

それを聞いた程頤は怒って、とうとう二人は仲違いした。程頤の門人の朱光庭と賈易は、当時監察官を務めていたので、やかましく蘇軾を攻撃し始めた。ギョウ・王ガンソウ・呂陶らも、相次いでこの一件について意見を述べた。傅尭兪と王巌叟は朱光庭に味方し、呂陶は蘇軾に味方した。

十八史略・訳注

蘇軾:=蘇東坡。1037-1101。
蘇軾

程頤:音テイ・イ。=程伊川。1033-1107。
程頤

光:=司馬光。1019-1086。
司馬光

子於是日哭則不歌:論語述而篇9の引用。

枉死市:枉死の解釈は二つあって、刑死や事故死など望まぬ死と、無駄死にの意がある。市は市場であると同時に盛り場で、品が悪くて時折大げんかが起こり、死人まで出る始末だった。おそらく蘇軾の心象風景では、そんな市場でのくだらないケンカで無駄死にすることだろう。

叔孫通:音シュク・ソン・トウ。生没年未詳。前漢の儒者。薛(山東省滕県)の人。叔孫は姓、通が名。はじめ秦に仕え、のち、前漢の高祖に仕えて重用され、奉常(儀礼をつかさどる長官)となり、のち太子太傅となった。習慣で「シュクソンツウ」とは読まない。

根が不良で酔っ払いで女好きの高祖劉邦に、儒学の礼儀作法を採用させた策士として知られる。昼間から大ぴっらに宮殿で謀反の相談をしたり、柱に斬り付けたりする家臣に手を焼いていた劉邦に、「お作法で躾ければ大人しくなります」と勧めた。

しかも「礼儀三百、威儀三千」と言われるしち面倒くさい儒教作法を、劉邦の好みに合うよう改変し、雲の上に居るような心地にさせたという。そして従う大勢の儒者たちに、官職を口利きしてやり貰った金品を分け与えたので、儒学の系譜は一旦、叔孫通に牛耳られた。

それを踏まえて、蘇軾は”でっちあげだ”と言い放ったわけ。

朱光庭:1037-1094。
朱光庭

賈易:生没年未詳。早くに父を亡くし、母親に孝行したとされる。
賈易

傅堯兪:音フ・ギョウ・ユ。1024-1091。

王巖叟:音オウ・ガン・ソウ。生没年未詳。

呂陶:1028-1104。

右:又は、右手を描いた象形文字。右は、「口+(音符)又(右手)」の会意兼形声文字で、かばうようにして物を持つ手、つまり右手のこと。その手で口をかばうことを示す。

十八史略・付記

意見としては程頤の言う方に理があると思うし、「歌ったら行くなとは書いてない」というのはこじつけに聞こえる。士大夫が社会の中心に躍り出た宋代らしい、役人根性から出た屁理屈と言うべきだが、なぜかおかしみを感じてしまうのはなぜだろう。

市場でのケンカについては、前漢の丞相(宰相)だった丙吉のエピソードがある。

吉又嘗出、逢清道群鬥者、死傷橫道、吉過之不問、掾史獨怪之。吉前行、逢人逐牛、牛喘吐舌。吉止駐、使騎吏問:「逐牛行幾里矣?」掾史獨謂丞相前後失問、或以譏吉、吉曰:「民鬥相殺傷、長安令、京兆尹職所當禁備逐捕、歲竟丞相課其殿最、奏行賞罰而已。宰相不親小事、非所當於道路問也。方春少陽用事、未可大熱、恐牛近行用暑故喘、此時氣失節、恐有所傷害也。三公典調和陰陽、職所當憂、是以問之。」掾史乃服、以吉知大體。


丙吉が邸から出かけた所、盛り場でのケンカに出くわして、死傷者が道に転がる騒ぎだった。しかし丙吉は気にも留めないで通り過ぎたため、従者は首をかしげた。

そのまま進んでいくと、次に牛を牽いた人に出会った。牛は苦しげに舌を出している。丙吉は車を止めて、護衛の騎士に尋ねさせた。「牛を牽いてどれほどの距離になるのか?」

従者は不思議に思った。人死に騒ぎを無視した宰相が、牛を気にするとは。「さすがに一言、言うべきかな」と独り言を言ったのを、丙吉が聞いて言った。

「民の者がケンカで殺し合いをしようとも、それは長安令や京兆イン(区長や都知事に当たる)の管轄で、そちらで鎮圧なり逮捕なりすればよい。一年が終われば宰相は、そうした下役を勤務評定して、賞なり罰なりを与えるだけだ。宰相はこういうチマチマしたことが仕事ではない。道ばたで何が起ころうが知ったことでは無い。

しかし今はまだ春の始めで、そんなに暑い季節ではない。それなのに大して長く歩いていない牛が、暑がって舌を出したとすると、これは季節が狂ったという大変動だ。災害が起こらぬかと慎まねばならぬ。宰相は陰陽の調節が務めだ。役目として牛を改めねばならぬ。」

従者はそれを聞いて納得し、丙吉の教えでものごとの根本を知った。(『漢書』丙吉伝)

この話は、当然蘇東坡も読んでいたはずである。科挙の科目に史書は入っていないが、蘇東坡は制科=すでに学名の高い者を任用する高等試験の出身者だった。

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