十八史略・巻七北宋:哲宗(14)

派閥抗争始まる

十八史略・原文

是時元豐大臣、退於散地、皆銜怨入骨、陰伺閒隙。諸賢不悟、方自分黨相攻。有洛黨・川黨・朔黨。洛黨以頥爲領袖。光庭・易爲羽翼。川黨以軾爲領袖。陶等爲羽翼。朔黨以劉摯・王巖叟・劉安世爲領袖。而羽翼尤衆。未幾、頥罷不復召。久之軾亦罷、後再入三入、皆不久而出。 

呂公著爲司空同平章軍國事。呂大防・范純仁左右僕射。純仁仲淹子也。公著尋薨。

十八史略・書き下し

是の時元豊の大臣、散地於退けられ、皆な怨みをふくむこと骨に入り、陰に間隙を伺う。

諸賢悟ら不して、方に自ら党に分れて相い攻む。洛党・川党・朔党有り。

洛党頤を以て領袖と為す。光庭・易羽翼為り。川党軾を以て領袖と為す。陶等羽翼為り。朔党劉摯・王巌叟・劉安世を以て領袖と為す。し而羽翼尤も衆し。

未だいくばくならずして、頤罷められ復た召され不。之を久しくして軾亦ら罷められ、後に再び入り三たび入るも、皆久しから不し而出づ。

呂公著司空同平章軍国事為り。呂大防・范純仁左右僕射たり。純仁は仲淹の子也。公著尋いで薨ず。

十八史略・現代語訳

司馬光が世を去り、蘇軾(蘇東坡)と程頤(程伊川)が仲違いした元祐元年(1086)、元豊時代(1078-1085)に新法党として活動した大臣は、みな閑職に追いやられ、誰もがその怨みを骨身にまで染み通らせていた。そしてこっそりと、旧法党のほころびを狙っていた。

ところが旧法党の大物たちはそんなことを露思わず、ちょうどその頃から派閥に分かれてせめぎ合った。その派閥には、洛党・川党・朔党があった。

洛党は程頤が首領で、朱光庭と賈易が賛同者だった。川党は蘇軾が首領で、呂陶が賛同者だった。朔党は劉・王ガンソウ・劉安世が首領格で、そして賛同者は最も多かった。

抗争から程なくして、程頤が崇政殿説書(皇帝の家庭教師)をクビになって、西京(洛陽)の国子監(国立学校)に飛ばされて、二度と栄職に就けなかった。さらにしばらくして礼部尚書(儀式・教育・外交を掌る官庁の長官)兼翰林学士(学術顧問官)の蘇軾もクビになり(元祐八、1093)、湖北の転運官(流通監督官)に飛ばされ、後に二三度復活したが、すぐにまた左遷された。

呂公著が司空同平章軍国事(上級宰相)になった。呂大防と范純仁が左右僕射(平の宰相)になった(元祐三、1088)。范純仁は范仲淹の子である。そのあとで、呂公著は世を去った(元祐四、1089)。

十八史略・訳注

元豐:神宗後半の年号。1078-1085。

散地:閑職。権限のない地位。ここでの散は”ひま”の意。

洛黨:首領の程頤が河南省洛陽の出であることから。

川黨:首領の蘇軾が四川省の出であることから。

朔黨:首領の劉摯が河北省の出であることから、「きたの党」の意。

頥:音イ。=程頤、程伊川。1033-1107。林本はここでは程頤に頥の字を使っている。

程頤/程頥

領袖:音リョウ・シュウ。原義はえりとそで。多人数の人を率いる、かしらとなる人。人を率いて、その手本となるようなすぐれた人。衣服をとるときには、まず、上方のえりやそでをとらえることから出たことば。

光庭:=朱光庭。1037-1094。
朱光庭

易:=賈易。生没年未詳。早くに父を亡くし、母親に孝行したとされる。
賈易

軾:=蘇軾、蘇東坡。1037-1101。
蘇軾

陶:=呂陶。1028-1104。

劉摯:音リュウ・シ。1030-1097。

王巖叟:音オウ・ガン・ソウ。生没年未詳。

劉安世:1048-1125。
劉安世

呂公著:1018-1089。

司空同平章軍國事:司空は名目上国家の最高官職の一つで、もとは土木工事とそれに動員する囚人の管理を掌った。後漢以降、名誉職になった。同は兼任すること。平章軍国事は平章軍国重事とも書かれ、宰相の一人だが、常設ではなく言わば上級宰相。

呂大防:1027-1097。

范純仁:1027-1101

左右僕射:尚書省の二人の長官。宰相の一つ。

仲淹:=范仲淹。989-1052。
范仲淹

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)