十八史略・巻七北宋:哲宗(15)

派閥抗争続く

十八史略・原文

知漢陽軍吳處厚言、蔡確謫安州日、作夏中登車蓋亭詩、譏訕臺諫。論確不已。安置新州。呂大防・劉摯・范純仁・王存等、以爲不宜令過嶺置死地。純仁曰、此路荊棘八十年矣。奈何開之。吾曹政恐不免耳。爭之不得。臺諫文章、攻純仁黨確。純仁遂罷。劉摯爲右僕射。大防・摯欲引用元豐黨人、以平舊怨、謂之調停。蘇轍等力陳其不可。摯罷。蘇頌爲右僕射。頌罷、純仁又代之。

十八史略・書き下し

知漢陽軍の呉処厚言く、蔡確安州にながさるるの日、夏中車蓋亭に登るの詩を作り、台諌を譏り訕ると。確を論けて已ま不。新州に安置す。呂大防・劉摯・范純仁・王存等、以て嶺を過ぎて死地に置か令むるの宜しから不と為す。純仁曰く、此の路荊棘八十年矣。之を開くに奈何。吾がともがら政に免れ不るを恐るる耳と。之を争えども得不。

台諌の文章、純仁を攻めて確にくみす。純仁遂に罷めらる。劉摯右僕射為り。大防・摯元豊の党人を引き用いんと欲し、以て旧怨を平げ、之を調停と謂う。蘇轍等力めて其の可なら不るを陳ぶ。摯罷めらる。蘇頌右僕射為り。頌罷められ、純仁又た之に代る。

十八史略・現代語訳

知漢陽軍(漢陽駐屯軍長官)の呉処厚が言った。「蔡確が安州(湖北省)に流された日(元祐四、1089)、”夏中車蓋亭に登る”という詩を作り、台諌(監察官)を批判した。」そして蔡確を非難して止まなかったので、安州よりもっと遠い新州(広東省)に左遷されることになった。

ここで呂大防・劉摯・范純仁・王存らが、呉処厚を南嶺山脈を越えて寿命を縮めるような土地に行かせるのは良くないと思った。右僕射(宰相の一人)の范純仁は言った。「新州へ至る道は荒れ果てて、もう八十年になる。どうやって復旧するというのだ。我が一党だって、いつ流されるか分からないぞ。」そして極力反対したが、叶わなかった。

すると御史(監察官)が上奏文を書き、范純仁を告発して蔡確に味方した。とうとう范純仁はクビになった。劉摯が代わって右僕射になった(元祐六、1091)。呂大防と劉摯は、元豊時代(1078-1085)の新法党の人を復権させようと計り、それで積もった怨みをほどこうとし、「調停するのだ」と言った。蘇轍らが「うまくいくわけがない」と猛反対した。その結果劉摯はクビになった(1091)。蘇頌が右僕射になった(元祐七、1092)。翌年蘇頌はクビになり、范純仁が復活して取って代わった。

十八史略・訳注

知漢陽軍:漢陽軍は現在の武漢に駐屯する節度使で、その長官。
華南地図

吳處厚:生没年未詳。進士。

蔡確:1037-1093。

安州:現在の湖北省安陸市一帯。

臺諫:御史台(監察府)の御史(監察官)。

新州:現在の広東省浮雲市・江門市一帯。
蜀雲南地図

呂大防:1027-1097。

劉摯:音リュウ・シ。1030-1097。

范純仁:1027-1101

王存:1023-1101。

臺諫文章:ここでの台諌は、呉安詩(生没年未詳)・劉安世(1048-1125)のことだと林本は言う。

攻純仁黨確:林本は「純仁の確に党するを攻む」とジョーバンキシ読みした上で、”純仁が確に味方することを攻撃した”と訳しているが、誤訳ではなかろうか。蔡確を非難した呉処厚(反・蔡確)を弁護した范純仁(反・蔡確)を、蔡確の一派だと弾劾するのはおかしいと思う。

右僕射:尚書右僕射。尚書省の長官の一人で、宰相の一人。

元豐:神宗後半の年号。1078-1085。

蘇轍:1039-1112。
蘇轍

蘇頌:音ソ・ショウ。1020-1101。
蘇頌

十八史略・付記

慎重に見直してみたので、林本の誤訳を指摘した部分の解釈は間違いではないと思うが、事の次第を宋史や続資治通鑑で確かめる根気は今は無い。それともあれだろうか、林本が正しくて、当時も今も、政界の一寸先は闇なのだろうか。

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