十八史略・巻七北宋:哲宗(16)

宣仁太皇太后の崩御

十八史略・原文

元祐八年九月、宣仁聖烈太皇太后崩。臨崩對上、謂大防・純仁等曰、老身沒後、必多有調戲官家者。宜勿聽之。公等亦宜早退、令官家別用一番人。呼左右問、曾賜出社飯否。因曰、公等各去喫一匙社飯、明年社飯時、思量老身也。后聽政九年、天下稱爲女中堯舜。

十八史略・書き下し

元祐八年九月、宣仁聖烈太皇太后崩ず。

崩ずるに臨みて上と対い、大防・純仁等に謂いて曰く、老身の没後、必ず官家を調たわむそばう者多く有らん。宜く之を聴す勿るべし。公等亦た宜く早に退き、官家を令て別に一番の人を用いしむべし。

左右を呼びて問うらく、曽て賜いて社飯を出したるや否やと。因りて曰く、公等各の去りて一匙の社飯を喫え、明年社飯の時、老身を思い量れば也と。后政を聴くこと九年、天下称びて女中の尭舜と為す。

十八史略・現代語訳

元祐八年(1093)九月、哲宗の祖母で神宗の母の、宣仁聖烈太皇太后が崩御した。

亡くなる直前に哲宗と対面し、呂大防・范純仁らに遺言して言った。「わらわの亡き後、皇帝陛下をあなどり軽んじる者が、きっとたくさん出るでしょう。そ奴らを見逃さぬがよいでしょう。御身たちも早く引退し、皇帝陛下に一世代若い者を用いさせるがいいでしょう。」

そして側近を呼んで尋ねた。「こなたたちに、もう今期の社飯(春秋の節句に出す特別料理)を賜い下されたか。」その社飯にちなんでさらに言った。「御身たち、この場を下がって一匙社飯を味わうがよい。明年の社飯の時、わらわの遺言を思い出してくれようからのう。」

太皇太后は政治を決済して九年間だった。天下の人は、「女性の尭舜」と褒め讃えた。

十八史略・訳注

元祐八年:1093。

宣仁聖烈太皇太后:=宣仁皇后。英宗の皇后で高氏。1032-1093。
宣仁皇后

大防:=呂大防。1027-1097。

純仁:=范純仁。1027-1101

老身:=老軀・老体。年おいて衰えたからだ。または老人が自分自身のことをいうことば。

調戲:たわむれふざける。

官家:天子。朝廷。政府。

一番:林本は、”一番は当時の俗語で、一遞(ひとかわり)と同じ。一交代の意。この時、新法派と旧法派に分かれていたから、両派に関係のない新規の人を用いさせよとの意”という。『学研漢和大字典』は番を、”「*型に開き散るさま+田」の会意文字で、さっと種を田にまくこと。播の原字。また、転じて、さっと開いてはとじる動作を数えることばとなる”という。

ここでは”新世代”と解した。なお『大漢和辞典』には有用な情報が無い。
一番

曾賜出社飯否:うっかり「出社拒否」と読んでしまいそうだが、社日は立春・立秋の後五回目の戊の日で、社飯はその日のために特別に作られる料理。現在でも湖北省のトウチャ族がその伝統を伝えているという。

女中堯舜:堯舜はともに伝説上の古代の聖王。
堯 舜

古来摂政を務めた皇后や太后はいくらでもいたが、前漢の呂后を筆頭に実家の者=外戚を引き込んで王朝を滅亡寸前にしたり、西晋の賈后のように事実上滅亡させたりと、何かと評判が悪かった。それゆえ人柄がよく政治に特に大過の無い宣仁皇后は讃えられたのである。

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