十八史略・巻七北宋:哲宗(17)

宣仁皇后の治世

十八史略・原文

不比外家。以擁佑嗣君之故、二子一女皆踈。以至公御天下、常世賢者畢集于朝。君子之盛、後世以慶曆・元祐竝稱焉。承神宗厭兵之後、與民休息。西蕃鬼章爲邊將擒獻。釋不誅、以招其部屬。夏國自其主秉常卒、乾順立、政亂主幼。屢寇邊失藩臣禮、皆强臣爲之、以其君民非有罪、不忍興師討伐、詔諸路嚴兵自備而已。

十八史略・書き下し

外家をならべ不。嗣君をいだき佑くる之故を以て、二子一女皆な疎し。公を至すを以て天下をおさめ、常に世の賢者ことごとく朝于集う。君子之盛り、後世慶暦・元祐を以て並び称えた焉。

神宗の兵を厭う之後を承け、民与休息す。西蕃鬼章辺将の擒え献ずるところと為る。釈して誅さ不、以て其の部属を招く。

夏国其の主秉常卒して自り、乾順立ち、政乱れ主幼し。屢ば辺にあだなして藩臣の礼を失うは、皆な強臣之を為し、其の君民罪有るに非るを以て、師を興し討ち伐つに忍び不、諸路の兵を厳めて自ら備うるを詔せる而已。

十八史略・書き下し

宣仁皇后は、自分の実家の者を政治に関与させなかった。哲宗を守り助けるために、自分の二子一女とは、すべて縁を遠くした。公共の利益を計ることで天下を治め、それゆえ当時の賢者たちは、ことごとく朝廷に集まった。後世、君子の盛んな様は、宣仁皇后が帝室の一員だった、慶暦(1041-1048)・元祐(1086-1094)時代が並べて讃えられた。

神宗が戦争を嫌ったのを受け継ぎ、民と平和に生きた。西の蛮族・鬼章が国境の将軍に捕らえられ、都開封に送られてきたが、赦免して処刑しなかった(元祐二年、1087)。その上その部族を宋の支配下に入るよう招き寄せた。

西夏は君主のヘイ常(恵宗)が世を去ってから(元祐元年、1086)、乾順(崇宗)が君主となり、政治が乱れて君主は幼かった。それで何度か国境を荒らして、宋の臣下であるべき礼儀を取らなかったが、これは全て、権力を握った大臣のしわざで、君主や民の罪ではないので、軍を動員し討伐するのを哀れに思い、各地方に命じて軍備を厳重にさせたに止まった。

十八史略・訳注

慶曆:1041-1048。仁宗の年号の一つ。

元祐:1086-1094。哲宗最初の年号。

神宗:1048-1085。宋の第六代皇帝。位1067-1085。
宋神宗

西蕃鬼章:=青宜結鬼章ゾンカ国(青唐・カク国、1032-1114)の将軍。

夏國:=西夏。1038-1227。タングート族の王朝。
北宋地図

秉常:音ヘイ・ジョウ。1061-1086。西夏の恵宗。

乾順:=李乾順。西夏の崇宗。1084-1134。

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