十八史略・巻七北宋:哲宗(18)

新法党の復活

十八史略・原文

上始親政。侍郞楊畏、首叛呂大防、自謂、迹雖元祐、心在熈豐。入對乞召章惇。明年改元紹聖。大防罷、惇爲右僕射。純仁罷。惇之來也、道遇陳瓘。惇素聞其名。獨請共載。訪以世務。瓘曰、請以所乘舟爲喩。偏重其可行乎。或左或右、其偏一也。惇默然。良久曰、司馬光姦邪、所當先辨。瓘曰、相公誤矣。此猶欲平舟勢。而移左以置右也、果然將失天下之望。

十八史略・書き下し

上親しく政を始む。侍郎の楊畏、はじめに呂大防に叛き、自ら謂く、迹は元祐と雖も、心は煕豊に在りと。入りて対いて章惇を召すを乞う。

明年改元して紹聖たり。大防罷められ、惇右僕射為り。純仁罷めらる。

惇之来たる也、道に陳瓘に遇う。惇素より其の名を聞く。独り共に載らんことを請う。以て世のことを訪う。

瓘曰く、請う、乗る所の舟を以て喩えと為さん。重きの偏らば其れ行る可き乎。或は左し或は右するも、其の偏りや一也と。

惇黙然たり。良や久くして曰く、司馬光の姦邪、当に先に弁くべき所なりと。

瓘曰く、相公誤れ矣。此れ猶お舟の勢いを平らげんと欲するがごとし。し而左を移して以て右に置く也、果然として将に天下之望みを失わんと。

十八史略・現代語訳

元祐八年(1093)、哲宗が親政を始めた。礼部侍郎(教育次官)の楊畏が、真っ先に旧法党の呂大防に楯突き、自分から「引き続き元祐の政治を行うのではあるが、志す所は神宗陛下の煕寧・元豊時代だ」と言って、参内して哲宗と差し向かい、章惇を呼び寄せるように言上した。

翌年(1094)、年号を改めて紹聖(紹は継ぐ。先祖の方針を引き継ぐの意)とした。呂大防は宰相をクビになり、章惇が右僕射(左僕射の誤り。宰相の一人)になった。范純仁が右僕射をクビになった。

章惇が呼び戻されて首都開封に向かう船中、たまたま陳カンと出くわした。頑固な旧法党ではあるが、章惇は以前からその名を知っていたので、二人だけで同船したいと願い出た。そして政治について意見を求めた。

陳瓘「それではこの舟に例えてお話しさせて下さい。積み荷の重さが偏っていたら、進めるでしょうか? 左が重かろうと右が重かろうと、偏っていることでは同じです。」

章惇は黙ってしまい、しばらくして言った。「司馬光めの悪だくみで仕出かしたこと(新法の廃止)を、まずは取り除くべきでしょうな。」

すると陳瓘「宰相殿、それは間違いですぞ。そうやって舟の釣り合いを取ろうとしても、左のものを右に移しただけです。片寄りは依然片寄り。そんなことをすれば、きっと世論の支持を失いますぞ。」

十八史略・訳注

上:=哲宗皇帝。1077-1100。宋第七代皇帝。位1085-1100。
宋哲宗 宋哲宗

侍郞:政府中央に当たる三省・六部の次官。林本によると、礼部(儀式、教育、外交を司る)侍郎だという。

楊畏:科挙を受けないでコネで官僚になったという。

呂大防:1027-1097。

自謂:林本は「自らおもえらく」と読み、”帝の親政のやり方は元祐に則っておられるが、心には煕寧・元豊の新法当時に恋々としておられる”と訳し、楊畏が哲宗の心中を勝手に想像した話になっている。

元祐:1086-1094。哲宗最初の年号。

熈豐:煕寧(1067-1077)と元豊(1078-1085)。共に神宗の年号。

章惇:音ショウ・トン。1035-1105。

紹聖:1094-1098。哲宗の年号の一つ。

右僕射:=尚書右僕射。宰相の一人。林本によると、左僕射の誤りという。

夏四月…壬戌、以資政殿學士章惇爲尚書左僕射兼門下侍郎。範純仁罷。(『宋史』哲宗紀)

純仁:=范純仁。1027-1101

陳瓘:音チン・カン。1060-1124。頑固な旧法党だったらしい。

司馬光:1019-1086。
司馬光

相公:宰相の敬称。昔、宰相に任ぜられる者は、かならず公に封ぜられたという。

果然:はたして。思ったとおり。/おやおやそうだったかと納得するさま。/腹のいっぱいなさま。「三菷而反、腹猶果然=三菷して而反するも、腹猶ほ果然たり」〔荘子・逍遥遊〕

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