十八史略・巻七北宋:哲宗(20)

復讐劇、帝室に及ぶ

十八史略・原文

文彥博久致仕。降太子太保、罷節鉞、尋薨。皇后孟氏、太皇太后所選聘也。在中宮五年而廢。章惇・蔡卞、請追廢太皇太后。賴太后向氏・太妃朱氏泣諫上悟。惇・卞堅請施行。上怒曰、卿等不欲朕入英宗廟庭乎。抵其奏於地。

十八史略・書き下し

文彦博久しく致仕す。太子太保に降され、節鉞を罷められ、尋いで薨ず。

皇后孟氏、太皇太后の選びてめとる所也。中宮に在りて五年に而て廃さる。章惇・蔡卞、追うて太皇太后を廃さるるを請う。太后向氏・太妃朱氏の泣いて諌むるに頼りて上悟る。惇・卞堅く施行を請う。上怒りて曰く、卿等朕の英宗の廟庭に入るを欲せ不る乎と。其のもうしを地於なげうつ。

十八史略・書き下し

文彦博は長い間隠居していた。そこへ改めて太子太保に降格され、かつて節度使として軍権の象徴として下賜されていた旗とまさかりを取り上げられ、しばらくして世を去った(1096)。

哲宗の皇后孟氏は、かつて宣仁太皇太后(英宗の皇后)が選んでめあわせた人だった。しかし(国禁を破った呪いが原因で)、皇后の地位にあって五年で位から降ろされた(1096)。(新法党の)章トンと蔡ベンは、すでに亡くなった(旧法党の擁護者だった)宣仁太皇太后の地位をも降ろすよう哲宗に願い出た。しかし太后向氏・太妃朱氏が泣いて諌めたので、哲宗は非を悟って却下した。

ところが章惇と蔡卞は、しつこく宣仁太皇太后の称号を奪うことを願い出た。さすがに哲宗は怒って言った。「そなたらは、私が祖父君英宗のみたまやに入ることの望まぬのか(宣仁太皇太后は英宗の皇后)!」そして上奏文を床に叩き付けた。

十八史略・訳注

文彥博:1005-1096。
文彦博

太子太保:太子の守り役。

節鉞:賊軍を征伐するときに将軍が天子から賜る物。「節」は、からうしの尾で飾った旗、または割り符。「鉞」は、まさかり。文彦博はかつて節度使を務めたので、節鉞を与えられていた。

皇后孟氏:=元祐皇后。1072-1131。
元祐皇后

紹聖3年(1096年)に掖庭の獄が起こり、9月29日に孟氏は呪詛、媚薬使用、病原投与の罪で皇后を廃され、瑤華宮に移されて道士にさせられた。法号は「華陽教主」「玉清静妙仙師」。元符3年(1100年)、哲宗が崩ずると、欽聖皇后によって皇宮に召され、皇后に復して元祐皇后を称した。(wikipedia)

太皇太后:=宣仁皇后。英宗の皇后で高氏。1032-1093。
宣仁皇后

章惇:音ショウ・トン。1035-1105。

蔡卞:音サイ・ベン。1048-1117。『水滸伝』の悪役の蔡京の弟。

太后向氏:=欽聖皇后。神宗の皇后。1046-1101。
欽聖皇后

太妃朱氏:=欽成皇后。神宗の妃。1052-1102。哲宗の生母。

上:=哲宗皇帝。1077-1100。宋第七代皇帝。位1085-1100。
宋哲宗 宋哲宗

英宗:1032-1067。位1063-1067。哲宗の祖父。
宋英宗

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