十八史略・巻七北宋:哲宗(21)

哲宗の崩御

十八史略・原文

立賢妃劉氏爲后。右正言鄒浩、乞追停册禮、別選名族。詔浩除名、勒停覊管新州。浩道過其友田畫、臨別出涕。畫正色曰、使君隱默官京師、遇寒疾不汗、五日死矣。豈獨嶺海之外能死人哉。願無自沮。士所當爲者、未止此也。 

元符三年上崩。在位十五年。改元者三。壽三十五。皇弟立。是爲徽宗皇帝。

十八史略・書き下し

賢妃劉氏を立ててきさいと為す。右正言鄒浩、追うて冊礼を停める、別に名族を選ぶを乞う。詔して浩の名を除き、いてめしめて新州につなおらしむ。

浩道に其の友田画を過り、別れに臨みて涕を出だす。画色を正して曰く。

君を使て京師に隠り黙るのつかさたらしまば、寒疾に遇うて汗せ不らば、五日にして死な矣。豈に独り嶺海之外のみ能く人を死なせん哉。願わくば自ら沮む無かれ。士の当に為すべき所の者は、未だ此に止まざる也と。

元符三年上崩ず。位に在ること十五年。改元三。寿とし三十五。皇弟立つ。是を徽宗皇帝と為す。

十八史略・書き下し

賢妃劉氏を昇格させて皇后とした(元符二年、1099)。右正言のスウ浩が、後追いでその手続きや儀式を止め、別に名族から皇后を選ぶよう諌言した。哲宗は詔を下して鄒浩を官員名簿から削り、強制的に職を取り上げて新州(広東省)に強制移住させた。

鄒浩は流される道すがら友人の田画を訪ね、別れに当たってポロポロと涙をこぼして泣きだした。(華南=五嶺山脈以南は風土病が強くて、北方人が流されると死ぬことが珍しくなかったからである。)田画は表情を正して言った。

「もし君が不正に口を閉ざし、都でおとなしく役所勤めしても、風邪を引いて汗をかかなかったら、五日の後には死んでしまう。南嶺の向こう、南海のほとりの風土だけが、人を殺すとは限らない。どうかくじけないでくれ。サムライたるものの務めは、これで終わりではないのだから。」

元符三年(1100)、哲宗が世を去った。在位は十五年。改元は三回。寿命は三十五。皇弟が即位した。これを宗皇帝という。

十八史略・訳注

賢妃劉氏:=昭懐皇后。?-1113。哲宗の寵愛を受けて皇后孟氏に取って代わった。林本によると、宋は唐にならい、貴妃・淑妃・徳妃・賢妃の四妃を置いたという。

正言:宋代の官職。諌言を司る。

鄒浩:1060-1111。

册禮:冊はある地位に任命すること、礼はそのための儀式。ここでは一連の皇后立后の儀式を言う。

名族:文字通り名門の家柄を言うが、宋代には唐代までの貴族階層が没落しきっており、社会の上流階級を形成したのは士大夫=一族から科挙官僚を出した家柄を言った。

除名:罪を犯した役人の名を、職員名簿から除きさり、その官職・位階をとりあげてやめさせること。日本の平安朝にも「ふだを削る」といって、殿上の間に掲げられた当直の札を取り払い、殿上人の資格を失わせるという、同様の刑罰があった。

勒停:強制的に官職をやめさせる。罷免する。勒の原義は馬の頭にめぐらす縄で、強制すること。

覊管:宋代の刑罰で、拘禁して指定地への居住を強制すること。

新州:現在の広東省浮雲市・江門市一帯。
蜀雲南地図

田畫:生没年未詳。

涕:同じ「なく」でも、なみだを上から下へ、低くたれおちさせながら泣くこと。

寒疾:風邪。

不汗:風邪を引いたら汗をかかせるという発汗療法は、遠く『傷寒論』(3世紀頃)ですでに知られていた。そこに記載され、現在でも処方される葛根湯や麻黄湯は、強い発汗作用を持つ。

嶺海:南嶺山脈と南の海。

元符三年:=1100。

上:=哲宗皇帝。1077-1100。宋第七代皇帝。位1085-1100。
宋哲宗 宋哲宗

徽宗皇帝:1082-1126。宋第八代皇帝。位1100-1126。
徽宗

十八史略・付記

華南への左遷や流刑は、半ば死刑を意味するものだったことは、唐代の昔から言われていたらしい。現在に至るまでインフルエンザ発生の地は、華南であることは周知の通り。家禽と同居する生活が、本来鳥類の疫病であるインフルエンザウイルスを、人にうつるようにさせると言われている。世界史上ペストと言われる疫病も、インフルエンザであることが珍しくない。

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