十八史略・巻七北宋:徽宗(1)

徽宗の即位

十八史略・原文

徽宗皇帝名佶、神宗第十一子也。初封端王。哲宗崩。欽聖憲肅皇太后向氏、召宰執議立嗣。后欲立端王。章惇曰、端王浪子耳。曾布身長。望見端王已在簾下。叱曰、章惇聽太后處分。王出簾。惇惶失措。王卽位。請太后權同處分軍國亊。范純仁等二十餘人、竝收敍。龔夬・陳瓘・鄒浩爲臺諫。 

韓忠彥爲右僕射。忠彥琦子也。 

文彥博・司馬光等三十三人、追復官。

十八史略・書き下し

徽宗皇帝名は佶、神宗の第十一子也。初め端王に封ぜらる。

哲宗崩ず。欽聖憲粛皇太后向氏、宰執を召して嗣を立つるを議らしむ。后端王を立てんと欲す。章惇曰く、端王は浪子耳と。曽布身長し。端王の已に簾の下に在るを望み見る。叱りて曰く、章惇太后の分くに処るを聴けと。王簾を出づ。惇惶てふるまいを失う。

王位に即く。太后に請うて権に同じく軍国の事に分くに処る。范純仁等二十余人、並びて収め叙せらる。龔夬・陳瓘・鄒浩台諌為り。

韓忠彦右僕射為り。忠彦は琦の子也。

文彦博・司馬光等三十三人、追うて官を復さる。

十八史略・現代語訳

徽宗皇帝名はキツ、神宗の第十一子である。元は端王の地位を与えられていた。

哲宗が世を去った(1100)。その義母である欽聖太后のキョウ氏が、複数いる宰相らを呼んで跡継ぎを議論させた。太后は端王を即位させたいと思っていた。しかし章トンが言った。「端王はごろつきです。」同席の曽布は背が高かった。だから端王がすでに、太后の座る御簾の後ろにいるのが見えた。そこで章惇を叱り付けて言った。「章惇、太后陛下の思し召し通りにせよ。」すると端王が御簾から出てきた。章惇は慌てふためいた。

端王が皇帝の位に即いた。太后に願い出て、一時的に軍事や国政の決済を共にした。(左遷・追放されていた旧法党の)范純仁ら二十余人が、軒並み呼び寄せられて高官に任じられた。キョウカイ・陳カンスウ浩が、御史台所属の政務議官になった。

韓忠ゲンが右僕射(宰相の一人)になった。韓忠彦は韓琦の子である。

文彦博・司馬光ら三十三人が、(剥奪されていた官位を)死後追って官位を戻された。

十八史略・訳注

徽宗皇帝:1082-1126。宋第八代皇帝。位1100-1126。
徽宗

神宗:1048-1085。宋の第六代皇帝。位1067-1085。
宋神宗

哲宗:1077-1100。宋第七代皇帝。位1085-1100。
宋哲宗 宋哲宗

欽聖憲肅皇太后向氏:=欽聖皇后。神宗の皇后。1046-1101。林本に”哲宗の妃”とあるのは誤り。
欽聖皇后

章惇:音ショウ・トン。1035-1105。

浪子:浪はなみのようにとりとめもないさま。型にはまらずかってなさま。でたらめなさま。浪子は”無頼の徒”。

曾布:1036-1107。

范純仁:1027-1101。

龔夬:音キョウ・カイ。1056-1111。

陳瓘:音チン・カン。1060-1124。頑固な旧法党だったらしい。

鄒浩:1060-1111。

臺諫:官吏の監察を司る御史台の諌官=政務議官。

韓忠彥:1038-1109。

右僕射:=尚書右僕射。宰相の一人。

琦:=韓琦。1008-1075。
韓琦

文彥博:1005-1096。
文彦博

司馬光:1019-1086。
司馬光

十八史略・付記

徽宗は中国史上きっての文化人皇帝と言われる半面、政治を放置して国を滅ぼした暗愚な皇帝の代表とも言われる。肖像を見ると、確かに間抜けな顔をしている。
徽宗 欽聖皇后

欽聖太后が徽宗を選んだ理由は不明だが、即位の年、すでに18になっていた徽宗の摂政になっていることから、言うことを聞く義子を皇帝に据え、摂政になりたかっただけだろう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)