十八史略・巻七北宋:徽宗(2)

徽宗、親政を始める

十八史略・原文

太后垂簾半年而還政。 

章惇罷、尋竄。

韓忠彦・曾布左右僕射。

貶邢恕。

貶蔡京・蔡卞。卞安石壻也。先是臺諫龔夬・陳瓘・任伯雨等攻卞、罷其執政。京爲翰林承旨。瓘見其視日不瞬、謂、此人必大貴。然以其區區精神、敢抗太陽。他日得志、必爲天下患。瓘語人曰、射人先射馬。擒賊先擒王。連疏攻之甚力。京罷。尋又以御史陳次升等言、與卞倶貶。

十八史略・書き下し

太后垂簾して半年にし而政を還す。

章惇罷められ、尋いで竄さる。

韓忠彦・曽布左右僕射たり。

邢恕を貶す。

蔡京・蔡卞を貶す。卞は安石の婿也。是より先台諌の龔夬・陳瓘・任伯雨等卞を攻め、其の執政を罷めしむ。

京は翰林承旨為り。瓘其の日を視て瞬か不るを見て謂く、此の人必ず大いに貴からん。然れども其の区区たる精神を以て、敢て太陽に抗う。他日志を得ば、必ず天下の患いと為らんと。

瓘人に語りて曰く、人を射んとせば先ず馬を射よ。賊を擒えんとせば先ず王を擒えよと。連ねて疏して之を攻むること甚だ力めり。京罷めらる。尋いで又た御史陳次升等の言を以て、卞与倶に貶さる。

十八史略・現代語訳

欽聖太后は、摂政を始めて半年で政権を徽宗に返した。(元符三年、1100)。

章惇が左僕射(宰相)をクビになり、次いで地方(雷州。広東省)に飛ばされた。

韓忠彦と曽布が左右僕射(宰相)になった。

邢恕の官位を落とした。

蔡京・蔡ベンの官位を落とした。蔡卞は王安石の婿である。その前に、台諌(議政官)のキョウカイ・陳カン・任伯雨らが蔡卞を問責し、執政の地位から引きずり下ろした。

蔡京は翰林承旨(学術顧問官)だった。陳瓘が、蔡京が太陽を見てもまぶしそうに瞬かないのを見て言った。「この人はきっと出世するそ。しかし精神が小物なのに、太陽に逆らおうとする。この先もし運をつかむと、かえって天下の災いになるだろう。」

陳瓘はさらに人に言った。「人を射るならまず馬から、賊を捕らえるならまず親分から、という。」かくして何度も蔡京の罪状を書き連ねて、せっせと引きずり落とそうとした。その結果、蔡京はクビになり、次いで御史の陳次升らの問責を受けて、蔡卞と共に官位を落とされた。

十八史略・訳注

太后:=欽聖皇后。神宗の皇后。1046-1101。
欽聖皇后

垂簾:摂政を務めること。皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その後ろに座って皇帝と共に政務を決裁する。

章惇:音ショウ・トン。1035-1105。

竄:左遷して地方に流すこと。

韓忠彥:1038-1109。

曾布:1036-1107。

左右僕射:左右の尚書僕射。宰相。

邢恕:生没年未詳。進士。

蔡京:1047-1126。

蔡卞:1048-1117。蔡京の弟。

王安石:1021-1086。
王安石

臺諫:官吏の監察を司る御史台所属の議政官。

龔夬:音キョウ・カイ。1056-1111。

陳瓘:音チン・カン。1060-1124。

任伯雨:生没年未詳。

射人先射馬。擒賊先擒王:林本によると、元ネタは杜甫の「前出塞」だという。

十八史略・付記

欽聖皇后が半年で摂政を止めた理由には詳しくないが、たぶん飽きたのだろう。長らく新帝の即位直後には太后の摂政、という形式が続いたため、やってみたかったに過ぎない。

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