十八史略・巻七北宋:徽宗(5)

蔡京、専権を握る

十八史略・原文

建中靖國、一年而改崇寧。韓忠彥罷。再追奪司馬光等官、籍元祐黨人。 

曾布罷。蔡京爲相、蔡卞執政。再貶竄元祐人、立姦黨碑。京自崇寧爲僕射、歷大觀・政和・重和爲大師。嘗暫罷、輙復入、雖罷之日、實執國命。其閒趙挺之・張商英作相、嘗與京異。然在位各不過數月或一年而罷。如何執中・鄭居中・劉正夫・餘深、雖在相位、或久或淺、居中亦與京異、常相排。正夫亦小異、然於京之權寵無損也。

十八史略・書き下し

建中靖国、一年にし而崇寧に改めらる。韓忠彦罷めらる。再び追うて司馬光等の官を奪い、元祐の党人をしるす。

曽布罷めらる。蔡京相為り、蔡卞執政たり。再び元祐の人を貶し竄し、姦党の碑を立つ。京崇寧自り僕射為りて、大観・政和・重和を歴て大師為り。嘗て暫く罷められ、輒ち復た入り、罷めらる之日と雖も、実は国命を執る。其の間趙挺之・張商英相と作り、嘗て京与異る。然れども位に在ること各の数月或いは一年を過ぎ不不し而罷めらる。何執中・鄭居中・劉正夫・余深の如きは、相の位に在ると雖も、或いは久しく或いは浅く、居中亦た京与異り、常に相いそしる。正夫亦た小しく異り、然れども京之権と寵於損う無き也。

十八史略・現代語訳

建中靖国の年号は、一年で崇寧に改められた(1102)。韓忠彦が宰相をクビになった。再び司馬光らの生前の官職を剥奪し、元祐時代の旧法党の人を(悪党)名簿に書き付けた。

曽布が宰相をクビになった。蔡京が宰相になった。その弟の蔡卞も副宰相になった。更に元祐の旧法党人を、官位を下げたり僻地に左遷したりし、旧法党の名を書き連ねた悪党の碑を立てた。

蔡京は崇寧年間(1102-1106)から僕射(宰相)を務め、徽宗の大観(1007-1110)・政和(1111-1118)・重和(1118-1119)の間は大師(名誉最高官)だった。しばらくの間クビになったことはあったが、そのたびごとに復活し、クビになっていた間も、実は政権を握っていた。

その期間趙挺之・張商英が宰相になって、蔡京と政見が違っていた。しかし宰相を務めて数ヶ月から一年未満でクビになった。他方で何執中・鄭居中・劉正夫・余深らは、宰相の地位に就き、在任の期間も長かったり短かったりし、とりわけ鄭居中は蔡京と政見を異にしており、いつも互いに悪口を言い合っていた。劉正夫もやや意見を異にしたが、蔡京の権力と徽宗からの寵愛を損ねることは出来なかった。

十八史略・訳注

建中靖國:=1101。徽宗の最初の年号。

崇寧:1102-1106。

韓忠彥:1038-1109。

司馬光:1019-1086。
司馬光

元祐:1086-1094。哲宗最初の年号。

籍:林本によると、”その子孫は以後朝廷で再び官職を得ることはできないし、皇族はこれらと婚姻をなすことはできないと定めた”とある。

曾布:1036-1107。

蔡京:1047-1126。

相:左右の僕射など、宰相のこと。

蔡卞:1048-1117。蔡京の弟。

執政:門下侍郎など、副宰相のこと。

僕射:左右の尚書僕射。宰相のこと。

大觀:1007-1110。徽宗の年号の一つ。

政和:1111-1118。徽宗の年号の一つ。

重和:1118-1119。徽宗の年号の一つ。

大師:名目上国家の最高官職である三公の一人。皇帝の師。

趙挺之:1040-1107。

張商英:1043-1122。

何執中:1043-1116。

鄭居中:1059-1123。

劉正夫:1062-1117。

餘深:?-1128。

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