十八史略・巻七北宋:徽宗(11)

宋、女真と遼挟撃の計画を立てる

十八史略・原文

政和初、乃自請奉使覘遼國。有燕人馬植者。陳滅燕之策。貫挾以歸、更姓名趙良嗣。復燕之議遂起。政和末、有漢人泛海來。具言女眞攻遼事。重和春、乃用蔡京・童貫議、遣馬政由海道、至阿骨打所居阿芝川・淶流河、與議共攻遼。阿骨打遂遣使來。宣和初、至京。詔京・貫、諭以夾攻取燕之意、差軍校呼慶送其使。由海道歸國。是歲、王黼爲相、力贊攻遼之策。

十八史略・書き下し

政和の初、乃ち自ら請うて使いを奉じて遼国をうかがう。燕人に馬植なる者有り。燕を滅す之策を陳ぶ。貫挟みて以て帰り、姓名を趙良嗣と更む。燕を復す之議遂に起る。

政和の末、漢人の海にうかびて来たる有り。具に女真の遼を攻めん事を言う。重和の春、乃ち蔡京・童貫の議を用いて、馬政を海道由り遣し、阿骨打の居る所の阿芝川・淶流河に至り、与に共に遼を攻むるを議らしむ。阿骨打遂に使を遣し来たる。

宣和の初め、京に至る。京・貫に詔して、以て夾み攻めて燕を取る之意を諭せしめ、軍校呼慶を差して其の使いを送らしむ。海道由り国に帰らしむ。是の歳、王黼相為りて、力めて攻遼之策をたすく。

十八史略・現代語訳

政和の初年(1111)、童貫はかねてよりの志通りに、自分から願い出て使者となり、遼国をのぞき見た。その時、燕の住人で馬植という者がおり、(遼の高官だったが裏切って)燕雲十六種を攻め取る策を進言した。童貫はこの男を連れて帰り、姓名を(帝室と同じ姓の)趙良嗣と改めさせた。こうして燕雲十六州奪取の計画がとうとう始まった。

政和の末年(1118)、(女真の地に住まっていた)漢人で海を渡ってやってきた(高薬師という)者がいた。そして詳しく女真の遼攻撃計画を語った。翌重和二年の春(1119)、蔡京・童貫の献策を用いて、(武義大夫の)馬政を海路経由で派遣し、阿骨打の住まう阿芝川・淶流河に行かせ、女真と遼を挟撃する計画を詰めさせた。そこで阿骨打も使いを派遣してきた。

宣和の初年(1119)、その使いが首都開封に来た。蔡京・童貫に命じて、女真の使者に挟撃によって燕雲十六州を取り戻す意向を了解させ、将校の呼慶を遣わして女真の使者を送らせ、海路経由で帰国させた。この年、王が宰相になって、遼攻撃の計画をせっせと手伝った。

十八史略・訳注

政和徽宗の年号の一つ。1111-1118。

:契丹族の王朝。916-1125。
北宋地図

馬植:?-1126。遼の高官だったが宋に寝返った。

貫:=童貫。?-1126。宦官でありながら軍人を兼ね、約二十年間軍権を掌握した。

有漢人泛海來:林本によると、高薬師という名だという。

女眞:=ジュルチン。満洲人とも。1115年に金を建国して遼から独立した。

重和:徽宗の年号の一つ。1118-1119。

蔡京:1047-1126。
蔡京

馬政:林本によると、武義大夫の官にあったという。

阿骨打:=完顔阿骨打。音ワン・ヤン・ア・ク・ダ。完顔が部族名で名が阿骨打。1068-1123。金の太祖。位1115-1123。
完顔阿骨打

阿芝川・淶流河:どの河川か比定しがたい。

宣和:徽宗の年号の一つ。1119-1125。

呼慶:詳細不明。

王黼:音オウ・ホ。1079-1126。

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