十八史略・巻七北宋:徽宗(14)

宋の北伐軍、潰滅す

十八史略・原文

時燕王淳守燕。蕭幹立淳爲主。宋童貫・蔡攸帥師、東路至白溝、西路至范村。蕭幹迎戰甚力。宋師敗退。耶律淳死。宋師再擧。遼涿州將郭藥師、領常勝軍來降。宋兵五十萬、進駐盧溝河。蕭幹拒之。藥師閒道襲燕。幹還救死鬪。藥師屢敗、僅以身免、遁還。盧溝之師遂潰。貫・攸懼無功獲罪。時金主在奉聖州。乃遣客禱金主圖之。

十八史略・書き下し

時に燕王淳燕を守る。蕭幹淳を立てて主と為す。宋の童貫・蔡攸師を帥い、東路は白溝に至り、西路は范村に至る。蕭幹迎え戦いて甚だ力む。宋の師敗れ退く。耶律淳死す。宋の師再び挙る。遼の涿州の将郭薬師、常勝軍をひきいて来り降る。宋の兵五十万、盧溝河に進み駐る。蕭幹之をふせぐ。薬師間道もて燕を襲う。幹還りて救わんとて死すとも闘う。薬師屢ば敗れ、僅に身を以て免かれ、遁げて還る。盧溝之師遂についえる。貫・攸功無くして罪を獲んことを懼る。時に金主奉聖州に在り。乃ち客を遣して金主に之を図らんことをねがう。

十八史略・書き下し

時に燕王淳燕を守る。蕭幹淳を立てて主と為す。宋の童貫・蔡攸師を帥い、東路は白溝に至り、西路は范村に至る。蕭幹迎え戦いて甚だ力む。宋の師敗れ退く。

耶律淳死す。宋の師再び挙る。遼の涿州の将郭薬師、常勝軍をひきいて来り降る。宋の兵五十万、盧溝河に進み駐る。

蕭幹之をふせぐ。薬師間道もて燕を襲う。幹還りて救わんとて死すとも闘う。薬師屢ば敗れ、僅に身を以て免かれ、遁げて還る。盧溝之師遂についえる。

貫・攸功無くして罪を獲んことを懼る。時に金主奉聖州に在り。乃ち客を遣して金主に之を図らんことをねがう。

十八史略・現代語訳

(宋が攻め入った)時(1122)、燕王の耶律淳が燕を守備していた。(天祚帝が逃亡したので、軍司令官の)蕭幹が耶律淳を君主に据えた。宋の童貫と蔡攸は軍を率い、東路軍は白溝河に至り、西路軍は范村に至った。蕭幹は迎撃して激しく戦ったので、宋軍は敗走した。

ところがこのさなか、耶律淳が死んでしまった。それを受けて宋軍は再び攻め寄せた。さらに遼の涿州の将である郭薬師が、配下の常勝軍を率いて宋軍に加わった。これで宋の兵は五十万(十万の誤りという)、盧溝河まで進んで陣を張った。

蕭幹が迎撃に出た。郭薬師が間道を縫って背後の燕を襲った。蕭幹は軍を返して燕の救援に赴き、死も恐れず戦った。その結果郭薬師は何度も敗れ、わずかに身一つで死を免れて逃げ帰った。この結果、盧溝に進駐した宋軍は壊滅してしまった。

司令官の童貫と蔡攸は、敗戦の結果断罪されることを恐れた。ちょうどその頃、金の完顔阿骨打は同じ河北の奉聖州にいた。そこで童貫と蔡攸は、口のうまいものを派遣して阿骨打に燕を攻めるよう泣きつかせた。

十八史略・訳注

燕王淳:=耶律淳、耶律涅里。1062-1122。北遼の君主。

蕭幹:未詳。林本によると遼の都統という官職にあったという。同名の人物(?-986)が遼の政治家・軍人として存在した。

童貫:?-1126。宦官でありながら軍人を兼ね、約二十年間軍権を掌握した。

蔡攸:1077-1126。蔡京の子。

白溝:どの河と比定しがたいが、河北の大河である大溝河の源流の一つに白溝河があるという。

范村:場所を比定しがたい。

:契丹族の王朝。916-1125。

涿州:現在の河北省保定市内の涿州市。
華北地図

郭藥師:生没年未詳。

常勝軍:林本によると、”はじめ耶律淳が募集して編成した軍で、怨みを女真に報いるというので怨軍ともいったが、後に常勝軍と改めた”とある。

宋兵五十萬:林本によると十万の誤り。

盧溝河:現在の永定河。北京市郊外の盧溝橋の名はここにちなむ。

金主:=完顔阿骨打。音ワン・ヤン・ア・ク・ダ。完顔が部族名で名が阿骨打。1068-1123。金の太祖。位1115-1123。
完顔阿骨打

奉聖州:現在の河北省涿鹿県一帯。

客:林本によると王環という人物だという。

禱:祈祷の”いのる”だが、林本は「もとむ」と訓んでいる。原義は神に祈り求めることだから、完顔阿骨打に泣きついた、といったところだろう。

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