十八史略・巻六北宋:仁宗(2)

丁謂

十八史略・原文

丁謂用事。竄寇凖爲雷州司戶。參政王曾密奏、謂包藏禍心、眞宗山陵、擅移皇堂於絕地。遂罷謂、貶至崖州司戶。謂初命學士草凖責詞、令用春秋無將・漢法不道爲證亊。及謂竄、學士乃用其語。人快之。方遂凖時、京師語曰、欲得天下寧、當拔眼中丁。欲得天下好、莫如召寇老。然凖、竟不及北還而卒。

十八史略・書き下し

丁謂、事を用う。寇準をながして雷州司戸為らしむ。

参政王曽、密かに奏すらく、謂はあだなす心を包みかくして、真宗の山陵、ほしいままに皇堂を絶地於移す、と。遂に謂を罷め、貶して崖州司戸に至らしむ。

謂は初め学士に命じて準の責む詞をしたがきせしめ、春秋の無将・漢法の不道を用いて事の証しと為さ令む。謂の竄さるるに及ぶや、学士乃ち其の語を用う。人之をよろこぶ。

方に準の遂わるる時、京師語りて曰く、天下の寧きを得んと欲さば、当に眼中の丁を抜くべし。天下の好きを得んと欲さば、寇老を召すに如くは莫し。然るに準、竟に北に還るに及ば不し而卒す。

十八史略・現代語訳

参政(=参知政事。副宰相)の丁謂が権力を握った。恩のある宰相の寇準を雷州(広東省)の司戸(戸籍・土地管理官)に左遷した。

同じく参政の王曽が、密かに奏上した。「丁謂は朝廷にあだなそうとする心を包み隠して、先帝真宗陛下のご陵にある祭殿を、好き勝手に縁起の悪い場所へ移しました。」それを読んだ仁宗は丁謂を罷免し、崖州(海南省)の司戸に左遷した。

丁謂は寇準を左遷する際、学士の宋授に命じて譴責文を下書きさせ、『春秋公羊伝』に「反徒は死刑」、漢の法律に「不忠者・不孝者は死刑」とあるのを根拠にさせた。ところが学士は丁謂の譴責文にその言葉を使ったので、人々が面白がった。

寇準が左遷されそうになったとき、都の人々は「天下太平を望むなら、目の中の丁(くぎ)を抜かねばならない。天下繁栄を望むなら、寇準さまを用いねばならない」と囃し立てた。しかし寇準は北の都に帰ること無く、そのまま南方で亡くなった(1023)。

十八史略・訳注

丁謂:966-1037。中国北宋初期の政治家・文人。寇準によって引き上げられたので、忘恩の徒と見なされたらしい。寇準の下で副宰相を務めた時代、ある宴席で寇準のヒゲのチリを払って機嫌を取ったので、かえって寇準にたしなめられたという。「鬚の塵を払う」の由来。

用事:政治を行う。また、権力をふるう。

竄:流罪に処する。

寇凖:961-1023。中国北宋初期の政治家。
寇凖

雷州:現広東省雷州市一帯。
北宋地図

司戶:=司戸参軍。唐・宋代の官名。州に置かれ、戸籍や土地のことをつかさどった。

參政:宋代の官名。参知政事の略称。宰相に次ぐ位で、国政の相談にあたった。

王曾:977-1038。中国北宋初期の政治家・文人。

崖州:現海南省三亜市一帯。

學士:宋授をさすと言われる。

春秋無將:春秋公羊伝、荘公三十二年・昭公元年に「君親無將、將而誅焉。」とあり、「そむく者は必ず誅殺する」の意。

漢法不道:漢代の罪名の一つ。罪のない一家の三人以上を殺したり、人を殺してばらばらにしたりしたときにあたる罪。

京師:都の人々。

眼中丁:目の中の丁=釘と、丁謂をかけている。

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